シリーズ イエスさまのたとえばなし 15 
『地引き網のたとえ』 マタイ 13:47-50 
  
今週の聖書箇所は、地引き網のたとえです。 
マタイの福音書第13章には、天国のたとえばなしがいろいろありました。 
(種まきのたとえ、毒麦のたとえ、からし種・パン種のたとえ、畑の宝・真珠のたとえ。いずれも、すでにメッセージしました。) 
そして、これがその中で実質的に最後のたとえばなしとなります。 
  
このたとえばなしは、この世の終わりの最後の審判についてのたとえばなしです。 
主題は、2つです。「必ず最後の審判が来る」という警告です。 
そして、「裁くのは主に任せよ。あなたは他人を裁いてはいけない」という忠告です。 
  
もちろん、それでいいのでしょう。が、私にはひとつ引っかかる所があるのです。 
それは50節です。 
火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。 
42節にも全く同じ記述があります。 
毒麦のたとえのときです。 
この嘆きは、きっと、永遠の滅びに対する絶望の嘆きでしょう。 
それとも、自分が犯した過ちを後悔しての嘆きでしょうか。 
  
この世では、因果応報は当たり前のことのように言われます。 
しかし、イエスさまが語ったから引っかかるのです。 
イエスさまは、言うまでもなく、救い主です。 
自分を十字架につけた人たちに対して、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と言われた方です。 
また、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」とも言われました。 
つまり、十字架上で私たちのために、すべての神様ののろいを受けた方なのです。 
  
そして、そのイエスさまは、最後の審判のときに、裁きの座におられます。 
イエスさまは、どんな表情で、炉に投げ込まれた悪者が泣いて歯ぎしりしているのを見られるのでしょうか。 
私には、冷淡に彼らを見ているイエスさまを、想像することができません。 
イエスさまの生涯を思うに、イエスさまのパーソナリティーを思うに、とても平気でおられる様な方ではないと確信するのです。 
  
イエスさまはきっと言うことでしょう。 
「私が炉に焼かれる。私が泣いて歯ぎしりする。いのちをかけてあなたを救う。」 
そして実際、この後にイエスさまは十字架につけられていくのです。 
そうです、このたとえばなしは、忠告でも警告でもありません。 
イエスさまの、いのちがけの愛の招待状なのです。 
  
天の父なる神様は、ワンモアチャンスの神様です。 
罪深く、弱く、わがままな私たちが、何度迷ってしまおうと、もう一度のチャンスを下さる方です。 
子なる神様のイエスさまは、その地上での生涯を通じて、また、十字架の死、復活を通じて、私たちにもう一度のチャンスを下さいました。 
私たちの助け主です。 
  
イエスさまが天に帰られたあと、もう1人の助け主、聖霊様が来られました。 
聖書(ローマ人への手紙8:26)に次のようにあります。 
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(御霊とは聖霊様のことです) 
聖霊様は、この世の苦しみの中で、どう祈っていいか分からなくなっている私たちに対して、祈りを通じて、もう一度のチャンスを用意してくださるのです。 
  
では、何のためのもう一度のチャンスなのでしょうか? 
それは、悔い改めのチャンスです。 
以前も申し上げましたが、悔い改めはただ罪を後悔することではありません。 
また、宗教儀式でもありません。 
それは、自分の本来あるべき場所、あるべき立場に帰ることです。 
私たちは神様に愛されるために造られた神様の宝物です。 
ですから、神様を自分の帰る場所と認め、そこに帰り、神様に愛されることが悔い改めなのです。 
  
その道を開くために、十字架で神様に見放され、のろわれたのがイエスさまです。 
炉で焼かれ、泣いて歯ぎしりしたのがイエスさまなのです。 
言いようもないうめきの中で、全力でとりなしてくださるのが聖霊様です。 
そのワンモアチャンスの愛にこたえるのが、私たちに与えられた役目です。 
それは、大切な、大切な役目です。 
喜びをもって、ワンモアチャンスの愛の中に生きていきましょう。 
  
あなたの神様は、愛の神様です。 
あなたの神様は、ワンモアチャンスの神様です。 
イエスさまは、いのちをかけてチャンスを開きました。 
聖霊様は、言いようもないうめきの中で、あなたにチャンスを下さいます。 
神様からの愛の招待状は、今、あなたの目の前にあります。 
  
あなたのためにお祈りしています。 
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