15   エマオへの途上 (話そう25 2005.04.23)
シリーズ イエス様と話そう25
『エマオへの途上』 ルカ 24:13-35
 
今週の聖書箇所は、イエスさまの復活の日の夕方の出来事です。
2人の弟子は、イエスさまの死に落胆したのでしょう。
エルサレムから離れて行こうとしています。
エマオへ道の途中、その2人にイエスさまが表れたのです。
しかし、彼らにはその人がイエスさまであると、すぐにはわかりませんでした。
なぜ彼らにはわからなかったのでしょうか。
 
19節の「どんな事ですか。」というイエスさまの問いかけに、彼らは答えています。
19〜24節の言葉には、何の間違いもありません。
常識的にみて全く正しい説明です。
ただ一点を除いて、全く完全な説明と言ってもいいでしょう。
しかし、イエスさまはこう言われました。(25節)
「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」
彼らの説明には、一番大切なものが欠けていたのです。
だから、彼らにはイエスさまをイエスさまであると認められなかったのです。
それで、「愚か」で「心の鈍い」状態だとイエスさまは言ったのです。
 
彼らに欠けていたものは、キリスト信仰・復活信仰です。
「救い主は、死んで、よみがえる。」という信仰です。
人間的に見たら、非常識・非論理的な考えですが、神様の目から見るならば、旧約時代からずっと一貫する、あたり前の事柄です。
人間の常識に神様を押し込んではいけないのです。
全知全能で無限の神様を、ちっぽけな人間の知性・理性・常識に閉じ込めることなどできないのです。
もしも、そんなことをしてしまうならば、私たちの目は覆われ、耳はふさがれてしまうでしょう。
 
しかし、これは、2000年前の彼らに限ったことではありません。
現代でも同じです。
しかも、クリスチャンでさえ陥ってしまう間違いなのです。
人間の理性に当てはまりやすい倫理や道徳に、神様のわざを押し込んでしまうことをよく見かけます。
また、「謙遜」が美徳となり、もしくは、あたかも救いや聖めの条件のようにあがめられ、謙遜にできない自分を責めてしまう状態もそうです。
 
聖書は、はっきりと示しています。
「義人はいない。1人もいない。すべての人はどろどろの罪人である。イエスさまの十字架以外に救いはない。」
倫理や道徳や謙遜は、どんなにがんばっても、人を救うことはできません。
救い主の十字架上の死と復活こそが、非常識に見えるかも知れないけれども、私たちの唯一の救い、唯一のよりどころなのです。
 
そんな彼らの目が開かれるときが来ます。
それは、「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。」とき(30節)です。
彼らはそのとき何を思ったのでしょう。
最後の晩餐でしょうか。
4000人・5000人の給食の奇蹟でしょうか。
いずれにしても、イエスさまの御業を思い出したときに、彼らの目が開かれたのです。
常識や知性を超えた、イエスさまの愛を思い出したときにです。
 
私たちも同じです。
イエスさまの十字架の御業を見たときに、目が開かれるのです。
そのとき、神様の宝物としての、本当の自分の価値に気がつきます。
そして、喜びに心燃やされて、いきいきと生きることができるのです。
 
彼らがした最高のこと、それは、イエスさまを食事に招いたことです。
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:20)
私たちも、扉を開けて、私たちの主、イエスさまとともに食事をしましょう。
それは、愛と喜びにあふれた食事です。
 
あなたの知性が、あなたの目隠しをする事があります。
あなたの理性が、あなたの耳をふさぐ事があります。
イエスさまの愛は、あなたの目を開け、あなたの耳を開きます。
さあ、扉を開けて、イエスさまとともに、食事をしましょう。
イエスさまの愛を、心いっぱい受けましょう。
 
あなたのためにお祈りしています。



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