第100回記念礼拝 『100倍の祝福』 
マルコ 10:29-31 歴代誌第1 21:1-4 
  
今週は、サンパウロゴスペルハウスの第100回礼拝です。 
それを記念して、新約聖書と旧約聖書の中から、「100倍」という言葉の聖書箇所を取り出して、記念のメッセージをしたいと思います。 
  
まず、新約聖書のマルコ10章です。 
この聖書箇所は、「捨てる」ということを強調しているように感じるかも知れませんが、そうではありません。 
イエスさまの言葉は「捨てる」ではなくて、「受ける」という結論なのです。 
ですから、何もかも捨てる虚無を目指しているのではなく、最高のものを1つ選ぶことを目指しています。 
そして、その最高のものを選ぶ自由(権利)が、あなたにはあるとイエスさまは言っているのです。 
  
何にも束縛されることなく、何にも妨害されることなく、最高のものを受ける自由(権利)が与えられているのです。 
そして、もしその最高のものを受けるならば、捨ててしまったものの100倍以上の祝福を、もちろん捨ててしまったものも含めて、受けられるということなのです。 
  
その最高のものとは何でしょうか。 
イエスさまは言われています。 
「わたしのために、また福音のために」(29節) 
そうです。 
イエスさまの福音です。 
私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり、すべてののろいを引き受けてくださったイエスさまの福音です。 
そして、いのちをかけて、すべての神様の祝福を私たちに与えてくださったイエスさまの福音です。 
  
だから、もう私たちの前には、神様のすべての祝福が与えられているのです。 
「あなたは何も失うことはない。私がすべてののろいを受け、私がすべてを失う。あなたには最高の祝福が与えられている。それを選びなさい、つかみなさい、受け取りなさい。」 
イエスさまは、そう言うのです。 
  
私たちは安心して、イエスさまの福音を選べばいいのです。 
しかし、少し不安になったり、他のものを捨てる勇気が出なかったりします。 
そんなときには「神様は私たちに最善しか与えない」という事実を知る必要があります。 
  
神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神が全てのことを働かせて益として下さることを私たちは知っています。(ローマ8:28) 
  
そうです、神様の祝福は、必ず最善なのです。 
しかし「神様の最善」と「自分自身が良いと思うこと」は違うということも、承知しなくてはなりません。 
  
私は昨年の11月12日に、はしごから落ちて脚をけがしました。 
ふくらはぎの筋肉が切れてしまったのか、内出血がひどく、数日後には、くるぶしのあたりが真っ黒になってきました。 
もちろん、痛いので、歩くのにも不自由です。 
2週間経っても、3週間経っても脚は良くはなりませんでした。 
しかし、外出しているときに気がついたのです。 
今までは、私は歩くのが早く、息子のはれる(当時4歳)と一緒に歩くと、「遅いなぁ」と思っていたのです。 
ところが、足が不自由になってからは、そんなことを思うこともなく、一緒に歩くことができたのです。 
  
私の脚のけがは、弱者である息子を無意識に裁いている状態から、私を解放してくれました。 
このけがは、愛すべき息子を裁いている「生きながらの地獄」の状態から、私を解放するための神様からのプレゼントだったのです。 
それで、「もう治んなくていい」と心から思ったとき、神様の癒しがはじまり、脚は快方に向かったのです。 
私は今まで「足が速いこと」「脚力が強いこと」を自慢の種にしてきました。 
しかし、その自慢は私を生きながらの地獄へ送り込みました。 
そして、神様のプレゼントを感謝して受けたときに、私はその世界から解放されたのです。 
  
次は、旧約聖書の歴代誌第1の21章です。 
ダビデ王は、神様とともに生きた人物です。すばらしいユダヤの王です。 
彼は、神様の力にいつも頼り、神様の力を誇り、神様だけが彼の人生の支えでした。 
神様の力はいつも彼とともにあり、彼の信頼は裏切られることはありませんでした。 
  
しかし、ここでダビデは、人口調査をしました。 
もちろん、人口調査自体は悪いことではありません。が、動機が良くないのです。 
彼の誇り、頼りは神様だけだったはずです。 
しかし、彼はここで、人口調査をすることで、自分の国の力を誇ろうとしたのです。 
自分の国の兵力を頼ろうとしたのです。 
その動機を見抜いたヨアブが、神様の祝福を思い出すように話しかけます。(3節) 
「神様は100倍もの祝福を下さる方だったでしょう!」  
しかし、ダビデは聞きませんでした。 
  
これがサタンの手口です。 
私たちを神様の祝福から、神様の愛から離すのがサタンの目的です。 
神様の祝福以外をつかませようとするのが、サタンの目的です。 
神様の祝福を、無意味なもののように、頼りないもののように、そればかりか、束縛やのろいのように感じさせるのが、サタンのやり方です。 
  
私たちは福音を誇りましょう。 
イエスさまの十字架を誇りましょう。 
イエスさまの十字架によって明らかにされた、神様の愛を誇りましょう。 
誰にも、何にも惑わされず、最高のものを選びましょう。 
100倍以上の祝福を神様からいただきましょう。 
何を捨てて、何をしっかり握るか、選択は私たちの心の中にあるのです。 
  
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。(ガラテヤ6:14) 
  
神様は、あなたにすべての祝福を与えています。 
その祝福を受けるための条件は一つです。 
今、握っているものを放して、祝福をつかむだけです。 
イエスさまが命を捨てた十字架は、あなたの祝福のためです。 
さあ、今、あなたの手を開いて、100倍以上の祝福をつかみましょう。 
  
あなたのためにお祈りしています。 
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