主の聖餐 開始記念礼拝  
『パンと杯』 第1コリント 11:23-28 
  
今週の聖書箇所は、教会の聖餐式のときによく用いられる箇所です。 
聖餐式の起源の場面と言ってもよいでしょう。 
同様の記述は、福音書にもあります。マタイ26:26-28、マルコ14:22-24、ルカ22:17-20です。 
今週から、サンパウロゴスペルハウスでは、毎週、礼拝中に聖餐をすることにしました。 
それを記念して、ここから聖餐について御言葉を開いていきたいと思います。 
  
先週の礼拝の終わった夜に、神様は私にひとつの夢を見させました。 
それは、私が十字架にかけられる夢です。 
十字架にかけられた夢ではなくて、これからかけられようとする夢です。 
そこで私が感じたものは、迫り来る痛みと、迫り来るのろい(十字架にかけられたものはのろわれるから)、そして、群集の無理解です。 
それらは、今までは、私にとって客観的なものでした。 
イエスさまの痛みであり、イエスさまへののろいであり、イエスさまに対する無理解だったのです。 
しかし、夢の中で、はっきりと主体的にそれを感じることができたのです。 
それは、本当に、つらく苦しいものでした。 
  
そのような、迫り来る痛み、苦しみ、のろい、無理解の中にあって、イエスさまは弟子たちに愛を示してくださったのです。 
そんな大きな愛の中で行われたのが、聖餐なのです。 
そんな聖餐に、ふさわしくない者とはどんな人なのでしょうか。 
多くの教会の聖餐式では、洗礼を受けていない人が、これに当たるようです。 
しかし、本当にそうでしょうか? 私はそうではないと思うのです。 
  
イエスさまの食卓は、いつもオープンでした。 
イエスさまは、罪人と罵られ、交わりから排除された人たちとともに食事をしました。 
取税人、売春婦、らい病の人たちのように、当時のユダヤ社会から排除されていた人たちとともに食事をしたのです。 
イエスさまの招きは、招きは常に無資格者に向けられていました。その人の功績や資格によるのではなく、全く一方的に招いていたのです。 
そんなイエスさまが、洗礼を受けていないことを理由に、聖餐を与えないということはありえません。 
  
洗礼を受けていない人たちは、福音を十分に理解できていないからという理由もありましょう。 
しかし、最後の晩餐のこのときの弟子たちも、イエスさまについて理解などできていないのです。 
ユダを除く11人にしても、イエスさまの逮捕のとき、我先に逃げているのです。 
また、彼らの話題は、このときにおいても「誰が一番偉いか」でした。 
イエスさまは、そんな彼らの心を知っていながら、「これはあなたのためです」と言ってパンを分け、ぶどう酒を分けたのです。 
それは、受ける側の姿勢がふさわしかろうと、ふさわしくなかろうと、与える側の愛が完全であるゆえに成立した食事なのです。 
  
聖餐、それは、イエスさまの福音そのものです。 
イエスさまの福音とは、イエスさまのいのちがけのとりなしで、罪人が「罪赦され、義とされ、神の子とされる」ことです。 
聖餐にふさわしくない者、それは、福音にふさわしくない者です。 
自分が正しいと誇るものです。 
自分が正しいのですから、救いは必要ないのです。  
  
当時のコリントで言えば、問題は、裕福な者にあったようです。 
コリントの教会では、持ち寄りの食事会がありました。 
彼らは裕福ですから、豪華な食事を持ってきます。 
それをみんなで分けるのならいいのですが、彼らは自分たちで食べてしまうのです。 
裕福な者は時間に余裕もありますから、早く持って来て、自分たちだけで早く食べてしまうのです。 
  
貧しい人たちがあとから来ても、席がありません。 
あったとしても、「お前たちは豪華な食事も持たずに来たんだから、食べる資格なし。」とばかりに排除されている状態だったのです。(17-22節参照) 
弱いものを排除し、自分たちを有資格者、弱者を無資格者としているところに問題があったのです。 
ここには愛が欠如しています、勝手な裁きがなされ、神様の主権は踏みにじられているのです。 
  
聖餐について、もし、教会やクリスチャンが、未信者に対して無資格とするならば、この裕福な者と同じではないでしょうか。 
また、指導者が、教会内のあやまちを犯した者を聖餐停止にするならば、つまり、聖餐から排除するならば、その指導者は自らの罪も救いも忘れているのではないでしょうか。 
「私の罪は赦されるけど、お前の罪は赦されない」とでも言うのでしょうか。 
それはナンセンスです。 
言葉遊びのようになりますが、聖餐にふさわしくない者がいると言うこと自体が、ふさわしくないことなのです。 
  
パウロ先生はこう言っています。 
ひとりひとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。(ガラテヤ6:4) 
  
私は宣言します。 
このサンパウロゴスペルハウスには、1人たりとも聖餐にふさわしくない人はいません。 
このメッセージを受け取っている皆さん、その中にも、1人たりとも聖餐にふさわしくない人はいません。 
聖餐は、イエスさまの福音そのものです。 
そのパンとその杯を受けるとき、私たちの体の中で、メッセージがうまれます。 
その愛が私たちの心に刻まれるのです。 
本来ふさわしくない者を、ふさわしい者としてくださったイエスさまの愛と恵みを信じて、大いなる喜びをもって聖餐にあずかりましょう。 
  
あなたは、ふさわしくない者でした。 
私も、ふさわしくない者でした。 
しかし、イエスさまの血潮が、私たちをふさわしい者としました。 
さあ、喜びをもって、イエスさまの食卓につきましょう。 
イエスさまの食卓は、いつも開放されています。 
それは、喜びに満たされた食卓です。 
  
あなたのためにお祈りしています。  
 |