18   宮きよめ (話そう26 2005.05.14)
シリーズ イエス様と話そう26
『宮きよめ』 マタイ 21:12-14
 
長男のはれる(5歳)は、「Jesus」というDVD(ポルトガル語)を繰り返し見ています。
そのはれるが、こんな質問をしてきました。
「ねえ、パパ。どうしてイエスさまは怒ってるの?机をバーンとしたり、どーんとしたりして。」
はれるにとって、イエスさまは優しい方だっただけに、かなり大きな疑問だったのでしょう。
 
今週の聖書箇所は、そんな幼子でなくても疑問を持つ箇所です。
なぜなら、これは十字架にかかる前の月曜日の出来事なのです。
イエスさまは前日、ロバに乗ってエルサレムに入城しました。
これは、戦う気持ちのないことを意味しています。戦士は馬に乗るはずです。
その柔和な王のイエスさまが、次の日には神殿で大暴れしているのです。
この箇所は「宮きよめ」としてよく知られています。
 
当時の神殿は、ヘロデの神殿といわれ、外側から、異邦人の庭・婦人の庭・イスラエルの庭・祭司の庭・至聖所となっていました。(下の図を参照)
異邦人の庭には誰でも入れますが、婦人の庭から中には、ユダヤ人しか入れません。
今回イエスさまが宮きよめを行ったのは、この異邦人の庭で行われていた両替商や動物(いけにえのための)商人です。
 
彼らには必要とされる側面もありました。
しかし、彼らは祭司たちと手を組み、あまりにも暴利をむさぼっていたのです。
神殿の中で売っている鳩は、神殿の外のものに比べて15倍も高かったそうです。
また、両替にしても、法外な手数料を神殿に来た人たちからとっていたのです。
それで、貧しい者の味方のイエスさまが怒った。というのも一面でしょう。
しかし今回は、別の3つのポイントからこの宮きよめを見ていきたいと思います。
 
3つのポイントの1つめ、それは「いのちの尊さ」です。
イエスさまは、彼らの商売を「強盗の巣」と言いました。
「商売の家」とも「泥棒の家」とも言わずにです。
それは何を表しているのでしょうか。
商売や泥棒は、相手の命を奪いません。しかし、強盗は、目当ての物のためなら、平気で相手の命を奪います。
神殿に人は祈りに来ます。罪の赦しのために来ます。
いのちを得るために来るのです。
しかし、そんな人たちを相手に、神殿内の商売人は、利益しか求めていません。
参拝者は、ただ「金儲けのための道具」だったのです。
いのちの価値が金以下なのです。
いのちの尊さが侵されていくときに、私たちの「いのちのパン」であるイエスさまが怒ったのです。
 
2つめのポイントは「祈りの場の奪還」です。
商売の行なわれていた異邦人の庭は、異邦人にとって、神殿内で唯一の居場所です。
しかし、そこは、金儲けのための市場になっていました。
同じ箇所の記述をしたマルコ11章にはこのようにあります。
また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。(11:16)
もはや、神殿ではなく、異邦人の庭は通路・道路・近道に使われていたのです。
イエスさまは、『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』(13節)と旧約聖書を引用しています。この箇所は、イザヤ56:7です。
わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。
彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。
 
そうです、「すべての民」なのです。
イエスさまは、この宮きよめで「売り買いする者たちをみな追い出し」(12節)たのです。
ただ商売人を追い出したのではなく、買っているユダヤ人をも含めて追い出したのです。
それは、私たちを含めた異邦人のために、祈りの場所の奪還を意味しているのです。
そのことは、まわりの人たちにもちゃんと伝わっています。
14節にあるように、この大暴れのあと、目の不自由な人たちや足の不自由な人たちがイエスさまのみもとに来ています。
祈りの場の回復がなされているのです。
 
3つめのポイントは「罪への勝利宣言」です。
イエスさまは、商売人や買い手とともに、鳩も追い出し、または、逃がしました。
捧げものになるべき鳩をも逃がしたのです。
これは、祭壇犠牲の完了を意味します。
なぜなら、数日後には、イエスさまが完全な捧げものとして十字架につくからです。
鳩や羊の犠牲はもう終わった。私があなたのすべての罪を負って、完全ないけにえとして十字架につき、罪に完全に勝利する。
もうあなた方は罪に定められない。
この宮きよめは、イエスさまの「罪への勝利宣言」なのです。
 
その日、万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる。(ゼカリヤ14:21)
ゼカリヤ書巻末の預言が、高らかな勝利宣言として、ここに表されたのです。
 
この宮きよめは、イエスさまの道徳的な怒りであるばかりでなく、いのちをかけた戦いであったのです。
それは、いのちの尊さのため、祈りの奪還のため、そして、罪への勝利宣言のためでした。
 
現代の私たちにも、この宮きよめは語りかけます。
イエスさまにとって、私たちのいのちは、何よりも尊いのです。
当時の神殿は壊れてしまいましたが、イエスさまは私たちに新しい宮を準備してくださいました。
それは、私たち自身です。私たちが、きよめられた宮なのです。
否定的な、消極的な思いは、すべてイエスさまが追い出してくださいました。
そして、祭壇には完全なる捧げもの、イエスさまがいつもいてくださるのです。
 
イエスさまは、いのちがけで、これをなしてくださいました。
私たちは、イエスさまのきよめた宮で、心からの喜びをもって、イエスさまをたたえましょう。
 
あなたは、きよめられた宮です。
もう誰も、何も、あなたの祈りを妨げることはありません。
イエスさまが、いのちをかけて、きよめてくださいました。
心いっぱい、神様を賛美しましょう。
喜びにあふれて、祈りましょう。
神様への捧げ物は、もちろん、私たちの救い主・イエスさまです。
 
あなたのためにお祈りしています。




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