19   ぶどう園のたとえ (たとえ16 2005.05.21)
シリーズ イエスさまのたとえばなし 16
『ぶどう園のたとえ』 マタイ 20:1-16
 
皆さんは、第100回礼拝のときのメッセージを覚えていらっしゃるでしょうか?
「100倍の祝福」ということで、マルコ10:29〜31からメッセージをしました。
そこで、イエスさまはちょっと不気味なひとことを残していました。
 
しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。(10:31)
 
第100回礼拝のときには、このことに触れませんでしたが、今週の聖書箇所は、ここからの続きなのです。
前回はマルコ書でしたが、今回はマタイ書になります。
今週の聖書箇所の直前にもイエスさまは同じことをおっしゃっています。
 
ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。(マタイ19:30)
 
そして、この聖書箇所の結びも、同じことが繰り返されています。
このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(21:16)
 
ユダヤのぶどうの収穫の時期は、9月です。
そして、10月からは雨期になります。
日本のぶどう栽培のように棚を作らないので、ぶどうは地面を這っています。
なので、雨期に入る前に収穫しなければ、品質が落ちますので、9月は猫の手も借りたいほどの忙しさです。
労働時間は午前6時から午後6時、灼熱の太陽の下、地面にはいつくばる様にして、つらい作業が続くのです。
 
朝早く、ぶどう園の主人は、市場へ労働者を得に行きます。
1日1デナリというのは、当時の労働報酬としては妥当な額です。
ですから、ここまでの状況は、当時のユダヤ人にとっては、なじみの深い光景なのです。
しかし、この主人は、その後、9時、12時、3時、5時と同じように繰り返しているのです。
労働時間が6時までですから、5時に市場に行くということは、通常の行動とは思えません。
実際に働けるのは30分程度でしょう。
 
5時に招かれた男は、何をしていたのでしょうか?
自分たちの状況の悪さを、周りのせいにしていたのでしょうか。
『だれも雇ってくれないからです。』(7節)と彼らは言っています。
ここには、他人のせいにしているようなそぶりが見られます。
あるいは、「たとえ1時間でもいいから、働きたい」と思っていたかも知れません。
しかし、いずれにしても、彼らは5時まで待っていたのです。
そして、待っていただけでなく、ぶどう園の主人に言われるままに働きに行ったのです。
 
そして、ここからがおかしな話になるのです。
朝早くから働いた者も、午後5時からで1時間も働いていない者も、同じ1デナリの賃金をもらうのです。
誰が考えても不公平な話です。現実社会のルールから言えば、滅茶苦茶です。
しかし、これは天国のたとえなのです。
天国とはこういうところであると、イエスさまが語ったたとえばなしなのです。
『ぶどう園のたとえ』とテーマをつけましたが、ここを『気前のよい主人のたとえ』と名づける場合もあります。
 
そうです。
天国は気前のいい主人のようなものなのです。
神様は、惜しみなく私たちを愛してくださいます。
どれほど惜しみなくかと言うと、愛する御子イエスさまを十字架につけて、私たちの罪の身代わりにするほどです。
また、イエスさまは、私たちを愛するがゆえに、十字架上で惜しみなくいのちを捧げられたのです。
この惜しみない、気前のいい、いのちがけで気前のいい愛によって、私たちは永遠のいのち・永遠の赦しを受けることができたのです。
 
この箇所はペテロの質問で始まりました。
「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」(19:27)
イエスさまの答えが、このたとえばなしなのです。
「あなたが得る報酬は一つだ。それは、神様の愛の恵みとしての永遠のいのちだ。これ以上のものはない。また、報酬がこれ以下の者もいない。」
すばらしい答えです。
招きに応じたすべての人に、永遠のいのちが用意されているのです。
 
しかし、あとから来た者が同じだけを受けると、先にいた者は損をしたような気になるものです。
もし、そこでねたみを起こすならば、本当の恵みを見失いかねません。
自分の行動(信仰生活)を誇り、他者を引き下げるなら、あとから来た者の方が、恵みに満ちた生活をさきに得てしまうのです。
ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。(マタイ19:30)
そうならないで、愛の中に、喜びを持って生きなさいと、イエスさまは私たちを招いておられるのです。
 
この箇所を読むと、このように言う人もいます。
「どうせ、いつ信じても同じにもらえるのなら、死ぬ寸前まで好き勝手なことをやろう。
死ぬ間際にイエスさまを信じた方が得だ。
早くクリスチャンになると損だ。」
神様の奴隷として自由を奪われ、苦行や精神修養を強要され、つらく悲しいのがクリスチャンライフならば、その意見も正しいでしょう。
しかし、本当のクリスチャンライフはそうではありません。
神様に愛され、赦され、自由と喜びのあふれる人生が、本当のクリスチャンライフなのです。
悲しいことや苦しいことは後まわしにした方が得ですが、愛、赦し、喜び、自由は早い方がうれしいですね。
 
私は子どもの頃、両親に心から愛されて育てられました。
本当に多くのことを両親から学ぶことができました。感謝でいっぱいです。
しかし、ただ一つ、注文をつけることがあるとしたら、それはこれです。
「なぜ、イエスさまの愛を伝えてくれなかったのか」
(私の両親はクリスチャンではなかったのです)
 
クリスチャンライフに後悔はありません。
もし、あるとするならば、「もっと早く信じたらよかった」という後悔だけです。
 
私たちを惜しみなく愛してくださる神様に愛されましょう。
私たちのため、いのちまで惜しみなく捧げたイエスさまから、永遠のいのちを受けましょう。
他の人を見てねたまず、心から神様の愛と恵みを喜びましょう。
先の者があとにならないように・・・。
 
あなたは、無条件で神様に愛されています。
あなたのために、イエスさまは十字架でいのちを捨てられました。
この永遠の愛と永遠のいのちは、あなたのためのものです。
あなたは、喜びをもって、遠慮なく、それを受け取っていいのです。
他の誰にも代えることのできない、大切なあなただから。
 
あなたのためにお祈りしています。



| 前週へ | 年間目次 | 次週へ |


ホーム 集会案内 伝道師紹介 Message 2008 御言葉の旅 歴史(年表) リンク集 Message 2007 Message 2006 Message 2005
Message 2004


gospelhouse@church.ne.jpメールはこちらまで。