シリーズ イエス様と話そう27 
『生まれつきの盲人』 ヨハネ 9:1-12 
  
盲人のいやしの記事は、福音書中に多数出てきます。 
盲人のいやしに注目して、4つの福音書を通読してみるのも面白いかと思います。 
今週の聖書箇所は、そのうちの1つでありますが、他の記事と比べてやや内容が違うので、特殊なケースといえるのではないでしょうか。 
  
福音書中の他の盲人のいやしの記事には、共通点があります。 
まず、彼らがいやしを求めているという点です。 
「ダビデの子よ、あわれんでください」と叫び求め、それに対して、イエスさまが、「どうしてほしいのか」と返答する形になります。 
また、叫んでいなくても、いやされるために集まって来たり、連れて来られたりしています。 
いやされる側の積極的な働きかけがあるのです。 
その信仰に対しての返答として、いやしが行われます。言い換えれば、信仰に対するあわれみの表現としてのいやしという側面が強いのです。 
  
今回は、弟子たちがこのような質問をします。 
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。 
この人ですか。その両親ですか。」(2節) 
彼らは、生まれつき盲目であることの原因を質問しています。 
彼らは、学問的に宗教を極めようとしているようです。 
当時は、盲目であることは罪の現われとして考えられていましたから、その罪は何であろうかと考えたのです。 
イエスさまなら答えられるに違いないと思ったのでしょう。 
あるいは、罪ある者を指摘することによって、盲目でない自分たちの聖さを誇ろうとしたのかも知れません。 
いずれにしても、盲目であることが、悪(罪)であるかのような言い方です。 
そこに、愛はありません。 
  
イエスさまは答えられました。 
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。 
神のわざがこの人に現われるためです。」(3節) 
弟子たちが原因を質問したのに対して、イエスさまは目的を答えています。 
その目的とは、神様のわざが現れるため、神様の栄光が現れるためです。 
ですから、このいやしは、信仰に対するあわれみという側面ではなく、神様の栄光の表現としての側面が強いのです。 
そして、それは、神様から一人ひとりに与えられた生きる目的の表現でもあります。 
  
また、このいやしには、いやされる側の求めがありません。 
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。(1節) 
これが、始まりです。 
いやされる側ではなくて、イエスさまがスタートなのです。 
  
聖書にはこのようにあります。 
あなたがたがわたしを選んだのではありません。 
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。 
それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16) 
  
私たちがイエスさまを見つめる前に、イエスさまが私たちを見つめています。 
そして、その人でなくてはならない役割を、私たち一人ひとりの人生に与えてくださるのです。 
  
「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」 
そこで、彼は行って、洗った。 
すると、見えるようになって、帰って行った。(9節) 
ここでイエスさまは、彼に飛躍を要求します。 
他の盲人のいやしの箇所では、その場でいやされているのですが、ここではそうではありません。 
彼はこれまで、生まれつきの盲人ということで、他人から「のろわれた人生を生きる者」として扱われてきました。 
そのような扱いを受け続けていく中で、彼自身も、そのことを認めざるを得なくなっていたことでしょう。 
  
イエスさまは、「のろわれた人生」から脱出し、「希望あふれる人生」へ飛び込むために、彼に飛躍を要求したのです。 
彼は、11節の言葉からも推測できるように、イエスさまのことを十分に理解していたとは思われません。 
しかし、理解は不十分でも構わないのです。 
鍵は、理解することではなく、信じることです。 
そして飛躍を受け入れることです。 
  
彼がその飛躍を受け入れて、シロアムの池に向かうことは、大いなる挑戦でした。 
途中、他の人から冷やかしの言葉、また罵るような言葉もかけられたことでしょう。 
しかし、神様は人を通じ、あるいは直接彼に言葉をかけ、彼の飛躍を支えたのです。 
彼は無事にシロアムの池に着き、そして彼の目はいやされたのです。 
彼の「のろわれた人生」は過ぎ去り、「希望あふれる人生」が到来したのです。 
神様からの飛躍への挑戦を受け入れたとき、神様の愛は、その飛躍の一歩一歩を支え、成し遂げる力を与えてくださるのです。 
  
わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20) 
いつも優しく、私たちとともにいてくださるイエスさまが、飛躍を求めます。 
それは、私たちに与えられた、かけがえのない特別な役割のためです。  
  
子どもが親を信頼して、広げられた腕の中に安心して飛び込むように、私たちも神様の腕の中に飛び込みましょう。 
その飛躍は神様の愛によって支えられています。 
そして、大いなる神様の愛の中でくつろぎましょう。神様の子どもとして。 
  
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。(第1ヨハネ3:2) 
  
あなたは、かけがえのない、大切な神様の宝物です。 
あなたの人生には、神様のすばらしい計画が用意されています。 
子どものように、信頼して、飛び込みましょう。 
愛あふれる、神様の胸の中に。 
あなたは、もうすでに、神様の子どもだから。 
  
あなたのためにお祈りしています。  
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