シリーズ イエス様と話そう22
『十人のらい病人』 ルカ 17:11-19
今週の聖書箇所は、イエスさまがガリラヤとサマリヤの境になる地区にいたときの出来事です。そこで10人のらい病人がイエスさまと出会います。
らい病は、当時はけがれた病気ということで隔離されておりました。
彼らはらい病でない人の近くに行ってはいけませんでした。
また「私はけがれている」と宣言までもしなくてはならなかったのです。
病気の苦しみも大変でしょうが、さらにこのような待遇を受けていた人たちだったのです。
この聖書箇所の後半で帰ってくるのがサマリヤ人ですので、少なくとも1人はサマリヤ人だったということがわかります。
ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪かったのですが、ここでは共同生活をしていたように推測されます。
困ったときは助け合うという状況ですね。
現在でも、新潟の地震被害のために日本中の人が心を配り、アジアの津波被害のために世界中が心を向けています。
この聖書箇所にも、神様からいただいた『あたたかい心』が見えます。
イエスさまに出会うと彼らは、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」(13節)と叫びました。
本来ならば、「イエスさま、先生。私たちはけがれています。どうぞ離れてください。」と言うべきだったでしょう。
しかし、彼らはイエスさまにあわれみを求めたのです。
救ってください、直してくださいと言ったのです。
ここに彼らの必死さを見ることができます。
イエスさまへの真剣さを見ることができます。
そして彼らは癒されました。
イエスさまのところに帰ってきたのは1人で、あとの9人は帰ってきませんでした。
なぜ9人は帰ってこなかったのでしょうか。聖書にはその理由は書いてありません。
私が以前、算数を教えていた生徒で、問題を出すと「問題を解く」のではなく「答えをあてる」生徒がいました。
ちょっと説明します。
「さあ、この問題の答えは何?」と聞くと、「10」と答えます。
間違えていると伝えると、「じゃあ、15」です。
そして、これを正しい答えになるまで繰り返します。
正しい答えになると、「あたった」と言っておしまいです。
彼には正解した喜びはありません。ただの偶然だからです。
帰ってこなかった9人もそうだったのではないでしょうか?
「お願いしたら直った。ラッキー!」「たまたまうまくいった。よかった!」 それでおしまい。
彼らにとって、この奇蹟は偶然に起こった出来事だったのです。
また、このようにも考えられます。
「私の頼み方がよかった」「私の今までの苦労が実った」「私の、・・・」という考え方です。
直ったのは自分自身ががんばったからだと考える方法です。
前者が偶然を重要視し、後者は自分自身を重要視しています。
しかし、どちらにも言える事があります。
それは、神様がいないということです。
彼らには神様への感謝がありません。
また、偶然や自分自身を中心に見ているならば、喜びは継続しません。
そして、それが帰ってきた男との決定的な違いです。
彼は神様をほめたたえながら帰ってきました。
神様への感謝にあふれていたのです。
神様への喜びにあふれていたのです。
その根源は「神様は確かに私と共にいてくださる」という確信です。
現代の私たちも同じです。
イエスさまに何かをしてもらったということよりも、イエスさまと共にいることの方が重要なのです。
イエスさまは、愛を示し、感謝と喜びの人生を開くために来ました。
イエスさまは彼に言いました。
「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」(19節)
口語訳聖書では「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と書いてあります。
病気の癒しだけではない、まったく新しい人生のスタートがここにあります。
愛に満ち、感謝と喜びにあふれる人生です。
神様をおそれ、ただ怖がり、裁かれないようにちぢこまる信仰があります。
これは、感謝も喜びもない信仰(人生)です。
イエスさまの十字架を感謝し、それに恥じないようにがんばる信仰もあります。
これは感謝は十分にありますが、喜びの少ない信仰(人生)です。
イエスさまの愛を十分に受け、感謝し、神様と共に喜んで生きる信仰があります。
これぞ、感謝と喜びあふれる信仰(人生)です。まったく新しい信仰です。
この感謝と喜びあふれる信仰(人生)の扉を開けて下さったのが、イエスさまです。
その扉は、私たちの目の前に、すでに開けられています。
イエスさまは、いつもあなたと共にいます。
それは、あなたを裁くためではありません。
あなたを愛するため、あなたと共に喜ぶためです。
あなたに、感謝と喜びあふれる人生をプレゼントするためです。
これは偶然でも、あなたの力でもありません。
ただ、あなたを心から愛する、神様の愛の力です。
あなたのためにお祈りしています。
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