シリーズ イエスさまのたとえばなし 18
『良いサマリヤ人のたとえ』 ルカ 10:23-37
今週の聖書箇所は、「良いサマリヤ人のたとえ」です。
律法学者がイエスさまに質問します。
「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」(25節)
これは、質問といっても、純粋な質問ではなく、イエスさまを陥れようとしての質問です。
つまり、罠ということです。
もしここで、「私を信じる者は永遠のいのちを受ける」と答えたら、モーセの律法はどうなったと責められます。
また、「モーセの律法どおり行いなさい」と答えれば、イエスさまの赦しは偽者だと責められるのです。
そこでイエスさまは、彼に問い返します。
イエスさま自身が答えるのではなく、彼に答えさせたのです。
彼の答えは非常に模範的な正解でした。
「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
イエスさまは、「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」と答えます。(28節)
「それを実行しなさい」というイエスさまの言葉に彼は引っかかります。
なぜなら、彼はそれを実行している自負があるのです。
「私は立派なユダヤ人だ。もうそんなことは実行している。なぜ今さらそんなことを言われなくてはならないのか。何が足りないと言うんだ。」という思いがあって、「では、私の隣人とは、だれのことですか。」(29節)という質問が出てきたのです。
きっと、このような丁寧な口調ではなかったことでしょう。
「おいこら、ちょっと待て、隣人って誰のことなんだ。答えようによっちゃあ、黙っちゃいないぞ。何がたりないって言うんだ。まさか、異邦人や、あのサマリヤ人まで含めろって言うじゃねぇだろうな。何とか言ってみろ。」こんな感じではなかったのでしょうか。
そして、そこでイエスさまが語られたのが、このたとえばなしです。
このたとえばなしは「隣人に愛を行いなさい。」という、道徳的訓話ではありません。
このたとえを解く鍵は、23節から24節のイエスさまの言葉にあります。
「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。
あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。
また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。」(23-24節)
旧約聖書からバプテスマのヨハネまで、預言者の指し示していた者、預言者の待ち望んでいた者は、救い主です。
ですから、ここでイエスさまは、ご自身を救い主として明らかにされているのです。
救い主の到来を高らかに(ひそかにではありますが、はっきりと)宣言しているのです。
救い主、それは神様の愛、赦し、永遠のいのちの具体的な到来です。
その救い主であるイエスさまの語ったたとえとして、このたとえを解かなければなりません。
歴史的な解説は省略しますが、サマリヤ人とユダヤ人は仲が悪いのです。
ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑し、差別し、迫害し、異端者、あるいは豚や犬扱いしているほど、仲が悪いのです。
そんな軽蔑され差別されているサマリヤ人が、にっくきユダヤ人を助けることはあり得ないし、隣人になどなり得ないのが当然の結論のはずです。
しかし、神様からの完全な赦し、完全な愛が来ました。救い主が到来したのです。
この愛と赦しの中で、今まで赦せなかった者を赦し愛することができるようになりました。
あり得ない愛が到来したのです。
この完全な愛を、完全な赦しを受けなさい。
そして、憎しみの呪縛から、悲しみの呪縛から、裁きの呪縛から解放されなさい。
新しい愛の時代が始まったのです!
こう、イエスさまが宣言されているのが、このたとえばなしなのです。
私たちは、誰かに憎しみを持ったままでは、誰とも本当の隣人にはなれません。
誰かを赦していないままでは、誰も(自分も)本当に愛することができません。
誰かを裁いているままでは、自分を(他人も)本当に受け入れることができません。
憎しみや悲しみや裁きの呪縛の中、本当の幸せが見えなくなってしまいます。
しかし、本当の幸せ・希望は、イエス・キリストにあります。
そして、イエスさまの十字架によって、私たちは何も支払わずにそれを受けることができるのです。
そして、私たちがそれを受け取ることこそ、神様の希望であり、イエスさまのいのちがけの希望であるのです。
神様の完全な愛が、この地に来られました。
あり得ないほどの大きな愛が、あらわれたのです。
それは、イエスさまです。イエスさまの十字架です。
この愛の中で、すべてののろいは解かれました。
新しい愛の時代が、今、はじまりました。
そして、あなたが、その愛の相続人なのです。
あなたのためにお祈りしています。
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