シリーズ イエスさまのたとえばなし 19
『愚かな金持ちのたとえ』 ルカ 12:13-21
今週の聖書箇所では、たとえばなしの前に、イエスさまのそっけない態度が出てきます。
遺産の配分のことで相談に来た男性に対する言葉です。
「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」(14節)
ふだんのイエスさまの温かさからは想像できないそうな言葉です。
細かいことは聖書に書いてありませんが、しかし、イエスさまはこの男性の中に貪欲を見つけたのです。
それで、このたとえばなしが語られたのです。
「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。
なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(15節)
クリスチャンになる前、私自身もそうだったのですが、財産が増えてくると、その財産が自分自身を支えてくれるような気になります。
しかし、いくら増えていっても、財産はいのちを支えるのに十分ではないのです。
そして、最後には不安と疑心暗鬼、そして絶望へと至るのです。
そう、財産を神様にしてしまったら、金銭を神様にしてしまったら、行き着くところは絶望なのです。
財産を神様にしてしまったなら、そこに、本当の神様との生活はなくなってしまいます。
そして、頼るべきものは、財産と自分自身の功績です。
この金持ちは、まさにそうなっていました。
17節から19節にかけて、「作物」「倉」「穀物」「財産」「たましい」という言葉が出てきますが、原文のギリシャ語でも、英訳聖書でも、ポルトガル語の聖書でも、それらすべてに「私の」という言葉が入っているのです。(新改訳聖書では「たましい」だけです)
私の、私の、私の、私の、・・・。
本当は神様のものなのにです。
神様がなくなった生活、財産を神様にしてしまった生活は、何を引き起こすのでしょう。
まず、感謝がなくなります。
彼は豊作になっても、何の感謝も持っていません。
豊作を与えてくれた神様に対しても、よく働いてくれた小作人にも、そして、豊作自体にもです。
また、満足がなくなります。
どれだけ集めたとしても、それで自分の命を支えることはできないからです。
それで、平安がなくなります。
土台が不安定なのですから、平安はありえません。「さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(19節)と言ってはいますが、そこに本当の平安は感じられません。
そして、人生に喜びがなくなります。
感謝も満足も平安もない人生に喜びなどありえないのです。
イエスさまは言われます。
「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(21節)
神様の前に富むとはどういうことでしょうか?
私たちが神様の前に持って行くことのできる富・宝とは何でしょう。
神様に捧げるに値する宝物とは何でしょう。
善行、施し、聖書を何回も読むこと、礼拝にまじめに行くこと、たくさんの献金、長時間の熱心な祈り、これらすべては、不完全な私たちがする限り、神様に捧げるに値する富・宝にはなりえません。
神様の前に持っていくことのできる宝、それは神様の作品である私たち自身です。
神様はご自身の宝物として私たちを造ってくださいました。
それはどんな財産より、どんな行いより、どんな思想よりもすばらしい宝なのです。
なぜなら、私たちは神様の最高傑作だからです。
ただし、罪に汚れてしまった私たちがこの宝を持っていくことのできる条件がひとつだけあります。
それが、イエス・キリストの十字架です。
この十字架の血潮によって、私たちのすべての罪は赦されます。
私たちは、神様の宝物としてこの人生を送ることができます。
そして、この世の人生が終わったときには、神様の前に神様の宝物として凱旋することができるのです。
「やあ、お前はこの私に何か宝を持ってきたのかね。」
「はい、神様。私は最高の宝を持ってまいりました。」
「どれ、その宝を見せてごらん。」
「神様、私がその宝物です。」
「ほぉ。」
「イエスさまの十字架によって、私は神様の宝物として、ここに戻って来られたのです。」
「よく戻ってきてくれたね。私の愛する宝物よ!」
自ら貧しくなられたイエスさまによって、神様の前に富む者となりましょう。
感謝・満足・平安・喜びは、そこにすでに用意されています。
あなたは、神様の宝物です。
神様は、あなたを愛し、あなたにいのちを与えました。
神様は、あなたの人生に、感謝と喜びを満たせました。
平安と喜びをあふれさせました。
あなたが、それらを手に入れるための鍵は一つです。
それは、イエス・キリストの十字架の愛です。
あなたのためにお祈りしています。
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