26   不正な裁判官のたとえ (たとえ20 2005.07.09)
シリーズ イエスさまのたとえばなし 20
『不正な裁判官のたとえ』 ルカ 18:1-8
 
今週のたとえばなしは、いつものたとえばなしよりも簡単に感じます。
それはなぜかというと、このたとえばなしは、たとえの目的がはっきりしているからです。
いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。(1節)
 
ここでの登場人物は2人です。
第1に裁判官です。
彼は「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」です。
イエスさまが2回もそう言っていることから、神様の前にも、人の前にも正しさのない者ということがわかります。
実際、当時のユダヤでは、裁判官が賄賂をとって正義を曲げることがよくあったのです。
 
もう1人の登場人物は、やもめです。
やもめは貧しさ・弱さを象徴する存在です。
彼女は、裁判官に何度も何度も、ひっきりなしにお願いに来ます。
彼女は貧しく、賄賂を渡すことができないので、繰り返しお願いするしか方法がなかったのです。
 
不正な裁判官は、うるさくて仕方がないので、彼女のために裁判を開くことにしました。
しかし、本当は彼女のためではなくて、うるさくされることからの解放を目的としているのです。
目的は、自己保身です。
 
不正な裁判官ですら、繰り返してお願いすれば聞いてくれるのだから、愛の神様が聞いてくれないわけがありません。
不正な裁判官は、自己保身のために裁判を開きました。
しかし、神様は、私たちに対する愛とあわれみによって、すみやかに裁判を開いてくださるのです。
ですから、祈るべきなのです。
という解釈もできるでしょうが、ここでもう一歩深めてみましょう。
 
不正な裁判官は、うるさくて仕方ないから裁判を開きました。
ですから、裁判の結果はわかっているのです。やもめの勝ちです。
もしも、やもめが負けたなら、もっとうるさくなるかも知れないからです。
不正な裁判官は、自分を守るためなら、不正な裁判をすることもできるのです。
 
しかし、正義の神様はそうはいきません。
不正な裁判はしません。
都合によって裁きを曲げることもありえないのです。
しかも、すみやかに裁きは行われるのです。
さばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。(7節)
すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。(8節)
 
私たちが誰かを神様によって裁いてもらおうとするなら、私たちも裁きの場に出なくてはなりません。
しかし、私たちはその裁きの場に耐えることができないのです。
なぜなら、聖書にはこうあります。
「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)
罪の大きさ・罪の重さは問いません。
すべて死刑です。
そして、神様の基準から見れば、私たちはすべて罪人なのです。
この事実を知るとき、私たちは失望するしかなくなるのです。
 
しかし、イエスさまのこのたとえは、2つの「べきこと」を目的としています。
それは、「祈ること」と「失望しないこと」です。
 
祈ることは、神様との対話です。
一方的に神様にお願いするのも祈りではありますが、それは祈りの一面でしかありません。
生きておられる神様との対話こそが、本当の祈りです。
私たちは、神様からの答えに、耳を澄ましてみる必要があります。
それは、心に直接語りかける神様の声かもしれません。
また、状況を通して示される神様のご計画かもしれません。
あるいは、他の人を介しての神様の答えかもしれません。
私たちそれぞれに一番適したかたちで、神様は語りかけてくださるのです。
その中で、私たちは、1つのことに気がつきます。
それは、「神様が私を愛していること」です。
「私は神様にとって大切な存在であること」です。
 
もう一つの目的は、失望しないことです。
しかし、私たちは、明確な希望の根拠を持たなければ失望しやすい、弱い存在です。
その希望の根拠は、イエスさまの十字架です。
 
ある死刑囚に死刑が執行されたとしましょう。
そして、死んだはずの死刑囚が生き返ってしまったとしたらどうでしょうか。
もう、その人は無罪放免です。
なぜなら、死刑はすでに執行されたからです。
死刑は一度執行されたならば、もう、二度と効力を持たないのです。
 
神様は私たちに正しい裁きを行われます。
私たちに下される判決は、死刑です。
しかし、もうすでにその死刑は執行されているのです。
それがイエスさまの十字架です。
私たちがイエスさまの十字架を自分の罪のための死刑と信じたときに、もう、私たちに対する死刑は執行されているのです。
私たちは、もう裁かれません。
だから、私たちは、もう誰も裁く必要もありません。
愛の世界、赦しの世界、完全な自由の世界が、イエス・キリストさまの十字架から私たちの前に開かれたのです。
 
祈って、神様の宝物・神様の王子である自分自身を見つけましょう。
十字架を握り締めて、揺るぎない希望を持ち続けましょう。
それが、イエスさまの求めておられる信仰です。
「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(8節)
この言葉は、私たちに対する、イエスさまのいのちがけの励ましなのです。
 
あなたの罪は、神様の前で裁かれなくてはなりません。
その判決は、死刑です。
しかし、イエスさまの十字架の身代わりによって、あなたの罪は赦されました。
もう、すみやかに、裁かれたのです。
いまや、あなたは、神様の宝物、神様の王子です。
愛と自由の世界が、あなたに与えられました。
 
あなたのためにお祈りしています。



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