シリーズ イエスさまのたとえばなし 21 
『金持ちとラザロのたとえ』 ルカ 16:19-31 
  
今週のたとえばなしは、登場人物に名前があることが特徴です。 
今までは、「兄」「弟」「金持ち」など、どんな人かを表していたのですが、名前はありませんでした。 
しかし、今回はラザロという名前が出てきます。 
ラザロとは「神様こそわが救い」「神様が助けてくださる」という意味です。 
ラザロという名前の意味を踏まえて、このたとえばなしを読んでいくと、より鮮明に内容がわかります。 
  
ここでは、金持ちとラザロの3つの場面の姿が表されています。 
生前の姿、死の姿、死後の姿です。 
  
生前の姿(19-21節) 
金持ちは、いつも紫の衣や細布を着ていました。 
紫の布は身分の高いしるしです。そして、細布は祭司しか着られない高価な服装です。 
この金持ちは、祭司であって金持ちだったのか、もしくは、金にあかして祭司の真似をしている者でした。 
しかし、毎日ぜいたくに遊び暮らしていたという姿からは、神様への感謝は感じられません。 
ラザロは、全身おできで、貧しい人でした。 
しかし、ラザロという名前が示すように、神様に望みを抱いていたものでした。 
  
死の姿(22節) 
ラザロは死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれました。 
これだけ読むと、恵まれた最後のようにも感じますが、言い換えれば、この世では誰も葬式を挙げてくれなかったということです。 
それに対して、金持ちは死んで葬られたとあります。 
きっと豪華な葬式だったことでしょう。 
  
死後の姿(23節以降) 
ラザロはアブラハムとともにいました。 
つまり、天国です。 
彼は生前、神様にのみ希望を持っていました。 
これが、神様の前に宝を積むということです。 
神様の前に富んでいる彼は、永遠の喜びの世界に導かれたのです。 
金持ちはハデスで苦しんでいました。 
日本語でなじみの深い言葉にすれば、地獄に落ちたのです。 
彼は、生前、人の前には富んでいました。 
しかし、彼は神様の前に富んでいる者ではなかったのです。 
彼は自分の財産や名誉、地位、プライドに期待をし、神様に期待も感謝もしなかったのです。 
彼はアブラハムに3つのお願いをしますが、それらはことごとく却下されます。 
  
そして、このたとえの中心をイエスさまはアブラハムに答えさせる形で示します。 
『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』(31節) 
  
モーセと預言者、これは聖書を意味します。 
当時、新約聖書はまだできていないので、ここでは旧約聖書のことです。 
旧約聖書は、一貫して一つの事を指し示していました。 
それは「救い主」です。神様の愛と憐れみの具体的なあらわれです。 
神様による希望です。神様に期待せよと聖書は語っているのです。 
「あなたの人生を自分の努力や財産を土台としてその上に載せてはいけない。あなたの人生はそんな安物ではない。」 
救い主のいのちがけの贖い、私たちのすべての罪を身代わりに背負った救い主、ここに期待すべきというのです。 
  
そして、それを聞かないのなら、「たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」とまとめています。 
実際、イエスさまは死人を生き返らせました。 
ヤイロの娘(マルコ5章)、ナインのやもめの息子(ルカ7章)、ラザロ(ヨハネ11章)です。 
この場に居合わせた人たちの中には、イエスさまを信じた人たちもいました。 
しかし、中にはそれでも信じない人、そればかりか、もう一度殺そうとした人たちもいたのです。 
私たちの中にもある、かたくなな心の恐ろしさを見るようです。 
  
しかし、聖書の言葉がないのなら、死人の中から生き返った者が語っても信じないというのは、私にとっては大きな励ましです。 
なぜなら、私も一度死んで、神様のあわれみによって生かされているものだからです。 
私はクリスチャンになる前、すべてに絶望し、ハワイに逃げていきました。 
それは、死に場所を求めてのことです。 
しかし、死に損なった私をイエスさまは救ってくださいました。 
それで、クリスチャンとなり、日本に戻り、妻も子も与えられ、こうして今はブラジルで伝道しているのです。 
私は、死人の中から神様によって救われた者です。 
  
しかし、死人の中から生き返った私が語っても、そこに神様の言葉(聖書の言葉)がなければ、誰も救われません。 
人の言葉ではなく神様の言葉、人の力ではなく神様の力、人の知恵ではなく神様の知恵なのです。 
私は、伝道者としてここにいますが、自分の努力に頼ることは必要ないのです。 
いかに神様の言葉を語るか、神様の力を邪魔せずにあらわせるか、神様の知恵・神様の愛を伝えるかを考えたらいいのです。 
主役は神様です。 
ならば、このような欠点だらけの者でも、神様の器として働けるのです。 
  
そして、イエスさまも死に、また、生き返りました。 
「死んで生き返っても、それでも信じない。」とわかっているのにです。 
それでもイエスさまは死んだのです。 
それでもイエスさまはよみがえったのです。 
それは私たちを愛するが故です。 
私たちの罪をみな十字架につけて死に、私たちの死ぬべきいのちを生かすためによみがえったのです。 
そして今は、神様の右に座して、私たちのために祈っておられます。 
そのとりなしの祈りによって、私たちは心開かれるのです。神様の言葉を受け入れられるのです。 
私たちの希望も期待も、神様にのみあるのです! 
  
あなたの希望は、ここにあります。 
あなたの期待は、ここでかなえられます。 
神様に希望を持ちましょう。 
神様に期待しましょう。 
神様は、あなたを愛しているからです。 
イエス・キリストの十字架は、その証文です。 
いのちがけの、愛のしるしです。 
  
あなたのためにお祈りしています。  
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