30   ノアの日のたとえ (たとえ22 2005.08.06)
シリーズ イエスさまのたとえばなし 22
『ノアの日のたとえ』マタイ 24:37-41
 
今週のイエスさまのたとえは、再臨のたとえです。
再臨とは、新キリスト教辞典では次のように書いてあります。
復活の後、地上を離れて天に上げられ、父なる神のみもとに帰られたイエス・キリストが、もう一度、天から地上に戻って来られること。(新キリスト教辞典)
 
もう一度イエスさまが来られるということです。
それは何のためでしょうか。
 
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。(ヘブル9:28)
そうです。キリスト者の救いの完成のためです。
私たちはすでに、イエスさまの十字架によって罪は赦されています。
しかし、再臨のときに、私たちは死からも自由になるのです。
完全な救いの完成のときです。
 
また、次のようにあります。
そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(第2テサロニケ1:8‐9)
イエスさまの十字架の救いを拒否する人たちにとっては、裁きのときです。
そこまで救いは、すべての人たちのために開かれていました。
しかし、その開かれていた救いの扉が、閉められてしまうときなのです。
 
そして、イエスさまは再臨の日がノアの日のように来るといっています。
それは、みんなが信じているが、いつ来るかわからないということではありません。
ノアの時は、周りの人たちは「来るはずがない」と思っていたのです。
ノアは隠れて箱舟を作っていたわけではありません。
質問されても隠していたわけではありません。
むしろ積極的に、神様の起こす洪水について語っていたことでしょう。
しかし、当時の常識、当時の科学知識、それらが彼らの目に目隠しをし、彼らの耳に耳栓をしてしまったのです。
 
科学はどんどん新しい発見によって書き換えられていきます。
10年前の非常識は、今の常識です。
今の常識も、5年後には非常識かもしれません。
科学や常識などというのは、移ろいやすいものなのです。
私たちはそのような移ろいやすいものに頼るのはやめましょう。
そうではなく、変わらない言葉、神様の永遠の愛の言葉、聖書の言葉に頼るべきだと思うのです。
 
イエスさまは続けます。
そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。(40節)
ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。(41節)
残されるとは、再臨の時に救われないことです。
あるカルト的キリスト教会は礼拝のメッセージ中にこのように言ったそうです。
「この会衆の中で、再臨の時に救われるのたった3人だけだ!」
なんという恐ろしい言葉でしょうか。
 
しかし、安心してください。すべてのキリスト者は救われます。
イエスさまの十字架は完全な救いだからです。
ともに畑にいる人、ともに臼をひいている人。
それは同労者です。
兄弟や姉妹、親子かもしれません。
しかし、どんなに仲の良い人にも、救いを分けてあげることはできないのです。
イエスさまはそう言っているのです。
なぜなら、救いは神様との直接の契約だからです。
それは変わらない永遠の契約。
神様の一方的な愛の契約です。
 
私たちにすべきことは一つです。
それは、その契約を喜んで受けることです。
ノアの箱舟に乗った動物たちは、箱舟建造に何の努力もしませんでした。
ノアがすべての準備をしたのです。
また、食べ物も動物たちは持参しませんでした。
ノアが準備したのです。
動物たちは、ただ自発的に箱舟に入っただけです。
それで、完全に救われたのです。
 
ノアのように、イエスさまもすべての準備をなさいました。
私たちは、喜んで、自発的に、その救いの契約のを受けようではありませんか。
 
イエスさまは、もう一度来られます。
それは喜びの日。
罪と死、サタンの力からの、完全勝利を得る日です。
恐れることはありません。
楽しみに待ちましょう。
イエスさまの十字架という、愛の契約書を握りしめて。
 
あなたのためにお祈りしています。



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