シリーズ イエスさまのたとえばなし 22 
『ノアの日のたとえ』マタイ 24:37-41 
  
今週のイエスさまのたとえは、再臨のたとえです。 
再臨とは、新キリスト教辞典では次のように書いてあります。 
復活の後、地上を離れて天に上げられ、父なる神のみもとに帰られたイエス・キリストが、もう一度、天から地上に戻って来られること。(新キリスト教辞典) 
  
もう一度イエスさまが来られるということです。 
それは何のためでしょうか。 
  
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。(ヘブル9:28) 
そうです。キリスト者の救いの完成のためです。 
私たちはすでに、イエスさまの十字架によって罪は赦されています。 
しかし、再臨のときに、私たちは死からも自由になるのです。 
完全な救いの完成のときです。 
  
また、次のようにあります。 
そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。 
そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(第2テサロニケ1:8‐9) 
イエスさまの十字架の救いを拒否する人たちにとっては、裁きのときです。 
そこまで救いは、すべての人たちのために開かれていました。 
しかし、その開かれていた救いの扉が、閉められてしまうときなのです。 
  
そして、イエスさまは再臨の日がノアの日のように来るといっています。 
それは、みんなが信じているが、いつ来るかわからないということではありません。 
ノアの時は、周りの人たちは「来るはずがない」と思っていたのです。 
ノアは隠れて箱舟を作っていたわけではありません。 
質問されても隠していたわけではありません。 
むしろ積極的に、神様の起こす洪水について語っていたことでしょう。 
しかし、当時の常識、当時の科学知識、それらが彼らの目に目隠しをし、彼らの耳に耳栓をしてしまったのです。 
  
科学はどんどん新しい発見によって書き換えられていきます。 
10年前の非常識は、今の常識です。 
今の常識も、5年後には非常識かもしれません。 
科学や常識などというのは、移ろいやすいものなのです。 
私たちはそのような移ろいやすいものに頼るのはやめましょう。 
そうではなく、変わらない言葉、神様の永遠の愛の言葉、聖書の言葉に頼るべきだと思うのです。 
  
イエスさまは続けます。 
そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。(40節) 
ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。(41節) 
残されるとは、再臨の時に救われないことです。 
あるカルト的キリスト教会は礼拝のメッセージ中にこのように言ったそうです。 
「この会衆の中で、再臨の時に救われるのたった3人だけだ!」 
なんという恐ろしい言葉でしょうか。 
  
しかし、安心してください。すべてのキリスト者は救われます。 
イエスさまの十字架は完全な救いだからです。 
ともに畑にいる人、ともに臼をひいている人。 
それは同労者です。 
兄弟や姉妹、親子かもしれません。 
しかし、どんなに仲の良い人にも、救いを分けてあげることはできないのです。 
イエスさまはそう言っているのです。 
なぜなら、救いは神様との直接の契約だからです。 
それは変わらない永遠の契約。 
神様の一方的な愛の契約です。 
  
私たちにすべきことは一つです。 
それは、その契約を喜んで受けることです。 
ノアの箱舟に乗った動物たちは、箱舟建造に何の努力もしませんでした。 
ノアがすべての準備をしたのです。 
また、食べ物も動物たちは持参しませんでした。 
ノアが準備したのです。 
動物たちは、ただ自発的に箱舟に入っただけです。 
それで、完全に救われたのです。 
  
ノアのように、イエスさまもすべての準備をなさいました。 
私たちは、喜んで、自発的に、その救いの契約のを受けようではありませんか。 
  
イエスさまは、もう一度来られます。 
それは喜びの日。 
罪と死、サタンの力からの、完全勝利を得る日です。 
恐れることはありません。 
楽しみに待ちましょう。 
イエスさまの十字架という、愛の契約書を握りしめて。 
  
あなたのためにお祈りしています。  
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