32   家を建てた人のたとえ (たとえ23 2005.08.20)
シリーズ イエスさまのたとえばなし 23
『家を建てた人のたとえ』マタイ 7:24-27
 
今週の聖書箇所は、マタイ福音書の5章から7章にかけての「山上の説教」の締めくくりとして語られたたとえばなしです。
岩の上に家を建てた人と、砂の上に家を建てた人のたとえです。
 
このたとえの対象人物は2人です。
わたし(イエスさま)のこれらのことばを聞いてそれを行なう人と行なわない人です。
彼らはほとんど同じような状況でした。
彼らは同じように自分の家を建てました。何か特別な特徴のある家とは書いてありません。
また、同じように災難にあいました。
両方ともに雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたのです。
 
それでは、両者の違いは何でしょうか。
それは土台です。
砂の土台(聞いて行なわない者)と、岩の土台(聞いて行なう者)です。
もろく、崩れやすい砂の土台の上に家を建てたのか、かたく、頑丈な岩の上に家を建てたのかの違いなのです。
結論は、私たちは聞いて行なう者になるべきなのです。
 
それでは、何を行なったらいいのでしょうか。
イエスさまは「わたしのこれらのことば」と言っています。
それは、山上の説教です。山上の説教は次のことばから始まります。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ5:3)
このことばを聞いた時、当時のユダヤの民は大いなる驚きを持って受け止めたことでしょう。
 
ここからはじまる山上の説教は、今までのユダヤの価値観を大逆転させていくのです。
それは、新しい時代の到来の知らせです。大逆転の時の祝砲です。
行ないによる救いでなく、イエスさまの十字架による救いの時代の幕開けです。
つまり、ここでの行ないは、何かをするということではなく、イエスさまの十字架による福音を受け入れるということなのです。
 
この箇所の直前にはこのように書いてあります。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7:22-23)
 
ここに登場するのは、何かを「自分が」したことを誇る者です。
自分の行ない、それが土台になっているのです。
たとえ、それがイエスさまの名によっての善行だったとしても、自分の行ないを誇っているのならば、それは神様に受け入れられるものではありません。
それは、はかないはかない砂の土台です。
私たちには謙遜が必要です。
 
逆に、このように言う人たちもいます。
「人生にも、自分にも、他人にも過剰な期待を抱かないようにしよう。
期待しなければ、少なくとも失望することはなくなるだろうから。」
これは、言うまでもなく、もろい砂の土台です。
にせものの謙遜です。
謙遜に見せかけて、実際は自己流の処世術を誇っています。
また、全知全能の神様の力をも卑下しているのです。
 
私たちの本当の岩の土台は、イエスさまです。
救い主イエスさまの救いを受け入れましょう。
自分自身の力では、何もできないことを喜びましょう。
すべての罪を担ってくださった、イエスさまの十字架を誇りましょう。
私たちは、神様に希望を持っていいのです。
イエスさまの十字架によって、神様の愛は私たちに確かに示されたのです。
 
何ができるかによって、あなたの価値は計れません。
あなたの価値は、神様があなたのために払った代償でわかります。
神様は、いのちを捧げるほどにあなたを愛したのです。
これが、あなたの人生の土台です。
ゆるぎなく、強い、喜びにあふれた、岩の土台です。
イエスさまの十字架にあらわされた、愛の土台です。
 
あなたのためにお祈りしています。



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