シリーズ メッセンジャーはイエスさま 02 
『新しい戒め』 ヨハネ 13:31-38 
  
今週の聖書箇所は、十字架前夜です。 
ユダがイエスさまを裏切るために出て行ったあとに、イエスさまが弟子たちにメッセージを語り始めます。 
31-32節でイエスさまは、「栄光」ということばを多用されます。 
ユダの裏切りによって、十字架につくことが確定的になったその時においてです。 
  
十字架は呪われた者がつく刑です。なのに、栄光。 
一読すると違和感を感じますね。 
しかし、イエスさまは全人類の救いのために生まれたのです。 
私たちの罪のための救い主です。 
ですから、十字架につくことは呪いでもありますが、同時に、救い主としての使命を全うする時でもあるのです。 
ただひとり、罪の全くない者だけが進むことのできる栄光の道なのです。 
  
そして、イエスさまは新しい戒めを与えます。 
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(34節) 
  
愛しなさいという新しい戒めです。 
しかし、旧約聖書にはこのようにあります。 
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:5) 
あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。(レビ記19:18) 
また、律法は要約するならば「神様と人間への愛」なのです。 
そう考えてみると、愛するということ自体が新しい戒めではないのです。 
以前からある古い戒めなのです。 
  
では、いったい何が新しい戒めなのでしょうか。 
それは、「わたしがあなたがたを愛したように」です。 
人間の中にあるエネルギーで守る戒めではありません。 
そうではなく、イエスさまの十字架によってあきらかになった、神様の愛をエネルギーにして守る戒めということです。 
ですから、まず、愛されることが先です。 
戒めのための前提条件が、愛されるということです。 
  
しかし、私たちはキリスト者になっても、新しい戒めを、古い戒めに戻してしまうことが多いではないでしょうか。 
「愛さなくては・・・」と気合を入れすぎて、自分の力でがんばる。 
すると、自分自身の中の愛の足りなさに気がつきます。 
そして、愛することができていない自分を責めてしまう。 
まじめな人ほど陥りやすい落とし穴です。 
しかし、自分の力でがんばろうとするならば、十字架の救いを拒否することと同じことです。 
  
イエスさまは私たちの弱さを知っています。 
ずるさも醜さも知っていて、その上で、十分承知の上で、十字架にかかったのです。 
36節以降は、ペテロの否認の予告が書かれています。 
しかし、拒絶したのはペテロだけではありません。 
新しい戒めを古い戒めに戻すなら、私たちもイエスさまを拒否したと同じことなのです。 
弱さもずるさも高慢さも受け入れ、呪いや拒絶さえも背負ったのがイエスさまの十字架の愛なのです。 
  
不十分な私たちの中に、本当の完全な愛はありません。 
もしあったなら、イエスさまの十字架はなかったはずです。 
十字架にかかる必要がないからです。 
ここでイエスさまが語ったのは、新しい戒めです。 
不完全な私たちがエネルギーを搾り出すのではなく、無限の神様の愛のエネルギーに満たされる戒め。 
私たちは喜んで戒めを受けましょう。 
そうです、力いっぱい愛されましょう。 
  
新しい戒めが、あなたに与えられました。 
それは、まず、愛される戒め。 
そして、愛に満たされる戒めです。 
イエスさまの十字架が、あなたにエネルギーを与えます。 
さあ、新しい戒めの中で生きましょう。 
それは、愛と、喜びと、自由と、平安の生活です。 
  
あなたのためにお祈りしています。  
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