4   不正な管理人のたとえ (たとえ10 2005.01.22)
シリーズ イエスさまのたとえばなし 10
『不正な管理人のたとえ』 ルカ 16:1-13
 
今週の聖書箇所は、イエスさまのたとえばなしの中でも「もっとも難解なたとえばなし」として有名なものです。
今日は、その箇所からイエスさまの大いなる愛を開いていきたいと思います。
 
この箇所が難解に感じるのは、「不正」が認められ、ほめられているようにも読み取れるところです。
イエスさまはこれまでに、不正を嫌い、不正を行っている人たちに悔い改めを訴えてきました。
なのに、ここで不正な管理人がほめられているのです。
しかし、イエスさまは不正な管理人の「不正」をほめたのではなく「抜け目のなさ」をほめたのです。(8節参照)
 
しかし、さらに一点引っかかるところがあります。
次の箇所です。
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。(9節)
この部分で「不正の富で」と書いてあることです。
新共同訳聖書では「不正にまみれた富」と書いてあります。
不正な物を利用するなんて、なぜなんだ?というわけです。それで難解になってしまうのです。
 
尊敬すべき、福音的な先輩牧師先生方は、次のように解釈しました。
皆さんもお聞きになった事があるでしょう。
「不正な富」とは、当時の言い回しで「お金」「財産」つまり、この世の富のことである。
この世の富・財産を、自分自身のために使う(ためこむ)のではなく、友のために、神様のために使うこと。
これが抜け目のない良い管理人として要求される事柄である。
 
確かに、このような言い回しが当時あったことでしょう。
しかし、ここでは「不正の富」を文字通り解釈していきたいと思います。
 
不正の富と反対にあるのが、正当な富です。
正当な富とは、正当な手段で手に入れた富のことです。
つまり、働いた報酬として得たお金や、土地などの持ち物や商品を売ったときに受け取る代金などです。
このように考えると、不正な富とは、働きもせず、物を提供することもなく、無償で得た富です。
自分が何も犠牲・代償を払うことなく得た富のことです。
そして、すべてのクリスチャン(イエスさまを信じる者)は、この富を得ています。
そうです、イエスさまの十字架です。
私たちは、イエスさまの十字架により、価(あたい)なしに永遠のいのちを得たのです。
 
聖書には次のように書いてあります。
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:24)
わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。(黙示録21:6)
 
本来、私たちは十字架につけられ、呪われ、殺されなければならなかったのです。
しかし、イエスさまがその身代わりになって十字架にかかりました。
それで、私たちは、無償で永遠の赦しを得たのです。
無償で永遠の愛を得たのです。
私たちは、この無償の愛・赦しである「不正の富」の管理人なのです。
こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。(1コリント4:1-2)
神様に対して忠実であることとは、イエスさまの十字架のあがないを受け入れることです。
 
不正な管理人は、債務者に証文を書き換えさせました。
借金を減額したのです。
しかし、彼はそれによって主人に損害を与えることはありませんでした。
なぜなら、聖書にはユダヤ人同士では利子を取ってはいけないことになっています。
それで抜け道として、利子の分を上乗せして証文を書いたのです。
つまり、油百バテと証文に書いて、五十バテ借りて(貸して)いたのです。
彼が行った減額は、その利子分だけを免除したのです。
主人の財産を損なわず、彼に与えられた権限の範囲内で最大限の免除をしたのです。
 
では、現在、神様から富を任されている私たちは何をしたらいいのでしょうか?
私たちに与えられた権限は何でしょうか?
それは、赦すことです。愛することです。
私たちは、イエスさまの十字架によって、永遠の愛を得ました。永遠の赦しを得ました。
神様の子どもとされました。その特権として、赦すことができます。
愛することができます。
そして、イエスさまはそれを「抜け目なく」することを望んでいます。
毎日の生活の中での活動以上に「抜け目なく」です。
 
ペテロはこう書いています。
それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。(1ペテロ4:10)
 
価なしに赦され、愛され、永遠のいのちを得た私たちは、他者に対して、抜け目なく赦すことができます。
抜け目なく愛することができます。
もし、そのエネルギーがないなら、十字架を見上げましょう。
十字架上のイエスさまを見上げましょう。
それは本来、あなたがかからなければならなかった十字架です。
ムチ打たれ、つばきを吐きかけられ、いばらの冠をかぶされ、両手両足をくぎ打たれ、十字架にかかったイエスさま。
その流れる血潮の一滴一滴が、あなたへの愛です。
あなたに愛する力を与えます。
十字架上での赦しの言葉、それはあなたへの赦しです。
あなたに赦す力を与えます。
イエスさまのいのちをかけた、私たちへの「不正の富」です。
 
あなたは、何の代償も払わずに、神様の子どもとしての特権を得ました。
イエスさまがあなたを愛し、十字架にかかったからです。
あなたは、他人を赦すことができます。
あなたは、他人を愛することができます。
あなたが、代償なしに、無限に赦され、無限に愛されたからです。
抜け目なく赦しましょう。
抜け目なく愛しましょう。
あなたは、すばらしい管理人です。
 
あなたのためにお祈りしています。



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