シリーズ イエスさまのたとえばなし 11 
『一匹の羊・一枚の銀貨のたとえ』 ルカ 15:1-10 
  
今週はルカ第15章の前半にある、2つの短いたとえばなしを読んでいきたいと思います。 
この2つのたとえばなしには、相違点ももちろんあるのですが、多くの共通点もあります。 
はなしのあらすじはほとんど同じです。 
持っている人がそれを失う。一生懸命に捜す。 
見つける。 
大いに喜ぶ。 
簡単に書くとこのようなことになります。 
  
ここで登場する羊飼いは、羊の持ち主(4節)です。 
彼は雇われ羊飼いではありません。 
また、銀貨の持ち主は、もちろん、ここに登場する女性です。 
これらはともに、神様をたとえています。 
ですから、この2つのたとえばなしは、神様が私たちをどのようにみているかを示したたとえばなしなのです。 
  
羊飼いは、失われた一匹の羊を懸命に捜します。 
また、銀貨をなくした女性は、あかりをつけ、家中を掃いて、自分のできる限りのことをして失われた銀貨を捜します。 
それは、一匹が欠けても百匹の羊ではないからです。 
一枚が欠けても十枚の銀貨ではないからです。 
どの一匹も神様にとってかけがえのない一匹なのです。 
どの一枚も神様にとってかけがえのない一枚なのです。 
そして、どんな危険があろうと、どんな苦労があろうと、かけがえのない1人を捜し出そうとするのが神様の本質なのです。 
その本質は、愛です。 
  
私は今週、ある教会の日系の牧師と伝道の相談をしました。 
いっしょに訪問伝道をしようと計画していたのです。 
そこで彼はこのようなことを言いました。 
「訪問伝道をするときには、きちんと線を引かなくてはなりません。私たちは遊びに行くのではなく、福音を伝えに行くのですから。楽しかっただけではだめです。」 
私はフムフムと頷きながら聞いていました。 
彼は続けました。 
「そして、訪問したら、その後のことをきちんとレポートにして、うまくいきそうな人にはもっと力を入れて、うまくいきそうでない人はやめて、別の人に時間をかけなければなりません。」 
私は頷けませんでした。 
それでは、訪問販売のセールスマンと同じです。 
  
確かに効率よく伝道しなくては教会は大きくならないかもしれません。 
効果が上がらなければ、やっている方もやりがいを失い、疲れてしまうかもしれません。 
どんなに苦労しても、その人は教会に来ないかもしれません。 
しかし、効率よりも大切なものがあるのではないでしょうか? 
私は、神様がやめろと言うまでは、訪問を続けたいと思うのです。 
  
私たちがブラジルに来る少し前のことです。 
妻が祈りの中で神様に聞かれました。 
「救われる人が1人しかいなくても、お前たちはブラジルに行くのか?」 
妻は神様に答えたあとで私のところへ来て、 
「こう聞かれので、答えておいたよ。よかったかな?」と言いました。 
答えは「その1人のために喜んで行きます」でした。 
もちろん、私の答えも同じです。 
  
これはきれいごとで言っているのではありません。 
イエスさまはこう言っています。 
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10) 
失われた1人のために、イエスさまはいのちをかけたのです。 
そして、イエスさまのからだである教会は、かしらであるイエスさまの思いに従うべきなのです。 
教会が大きくなることも神様の栄光を表すひとつの方法かもしれません。 
しかし、効率を無視して、採算を無視して、1人のためにいのちをかける愛を忘れたなら、教会がそれを失ったなら、私はおしまいだと思うのです。 
  
さて、一生懸命に捜された結果、失われたものは見つけられました。 
そして、本来あるべき場所へ運ばれていきます。 
銀貨はもちろん、羊も自分で歩くのではなく、運ばれていくのです。 
  
ここで出てくるのが「悔い改め」です。 
悔い改めと聞くと、何か難しいこと、何か大変なことと考えがちです。 
また、非常に宗教的なことと考えることもあります。 
しかし、このたとえの中で示されている悔い改めは何でしょうか? 
それは、本来あるべき場所を認め、そこに戻り、所属することです。 
簡単に言うと、神様に愛されている者であると認め、神様に愛されている者として生きることです。 
自分の罪深さに卑屈になることが悔い改めではありません。 
自分の罪深さを認め、救い主イエスさまを認め、救いの喜びの中に生きることです。 
  
かけがえのない一匹(一枚)が戻ってきたとき、それは大いなる喜びのときです。 
天の国に喜びがわき起こるのです。 
なんとすごいことでしょう。 
戻された本人よりも、神様の側に大きな喜びがあるのです。 
なんと大きな神様の愛でしょう。 
また、悔い改める必要のない99人(7節)とは、すでに悔い改めている人たちです。 
すでに神様のものとされている人たちです。 
この99人は、失われた1人が戻ってきたとき、喜びの叫びを上げることでしょう。 
私たちは、自分自身が戻されたときも、また、誰かが戻されたときも、神様の御使いとともに大声を上げて喜ぶことができるのです。力いっぱい喜びましょう! 
  
神様が与えてくれた人生です。 
その人生の中で、あなたはかけがえのない存在です。 
愛され、喜ばれ、愛し、喜び生きることを要求され、保証されているのです。 
  
あなたはかけがえのない、たった一人の大切な人です。 
あなたの人生の主人公は、あなたでなければならないのです。 
誰にも代わることはできません。 
それは、神様の宝物としての人生です。 
さあ、神様とともに戻ってみませんか?  
あなたの本当の人生に。 
  
あなたのためにお祈りしています。 
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