40   聖書にみる愛 (2005.10.15)
「聖書にみる愛」
 
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
イザヤ書43:4(旧約聖書)
 
そのとき、イエスはこう言われた。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
ルカ福音書23:34(新約聖書)
 
今週は皆さんと一緒に、聖書の中にある愛について分かち合いたいと思います。
先日、ある方(キリスト教徒ではない方でした)とお話していく中で、
「結局、すべての宗教は同じことを言ってるんですよ。
それは、愛と平和。だから、どんな宗教でも同じですよ。」と言われました。
愛と平和 "Love & Peace" ・・・私は、ビートルズみたいだなぁと思いながら聞いていたのですが、では、愛とは何であると考えているんだろうと思わされたのです。
それで、今週は聖書にみる愛というテーマで、メッセージいたします。
 
私は30歳の時に初めてイエスさまの福音に触れ、それを受け入れて、キリスト者になりました。
それまでは、普通の(普通よりかなり悪かったかもしれません)無宗教の生活をしていました。
その時の私にとって、愛という言葉は、好きのもうちょっと先にある言葉でした。
好きがもうちょっと強くなったら、愛。
また、愛という言葉には、かなり性的なイメージも付きまとっていて、言うのに恥ずかしい言葉でありました。
もちろん、これは当時の私が持っていた偏った愛のイメージではありましたが、私のまわりの人たちもおよそ同じような感覚で愛という言葉を使っていました。
 
しかし、聖書でいうところの愛はそうではないのです。
聖書の中には、愛という言葉がたくさん出てきます。
私の手もとにある聖書は、約1900ページ(旧約1440+新約460)ありますが、その中に、愛という言葉が約700回(旧約340+新約370)出てきます。
3ページ弱に1回の割合ということです。
その他にも、愛という言葉を使わずに愛を表現する箇所もありますので、キリスト教が愛の宗教であると言われるのもうなずけます。
今週はその中から2つの聖書箇所を取り上げてみました。
 
まず、旧約聖書イザヤ書の第43章4節です。
ここでの「私」は神様のことです。
また「あなた」とはユダヤ人のことです。
ユダヤ人は、全人類の代表として、人間と神様との関係を表すために選ばれた民ですから、「あなた」とは人類全体をあらわしているとも考えられます。
また、今こうしてメッセージを受け取っておられる皆さんも、人類全体の外ではありませんから、「あなた」とはまさに言葉どおり、ここにいるあなたを指すといってもよいのです。
 
神様は、当時のユダヤ人に対して、「高価で貴い」と言い、「愛している」と言われました。
それでは、彼らは当時とても立派だったのでしょうか?
いいえ、お世辞にも、とてもそうは言えません。
彼らの信仰はゆがめられ、彼らの心は神様からはなれていました。
神様から見たら、悲しむべきことばかりだったでしょう。
人々には愛される資格は何もありませんでした。
しかし、神様はそんなユダヤ人を貴いと言い、愛しているのです。
そうです、聖書での愛は「愛することのできない者を愛する愛」「愛する価値のない者を愛する愛」なのです。
そしてこの愛は今、あなたに対して注がれているのです。
 
愛する価値のある者を愛するのは、簡単なことです。
それは自然にわきあがってくる感情だからです。
まさに、私がキリスト者になる前の定義と同じです。
好きのもうちょっと先にある愛です。
しかし、聖書の愛はそうではありません。
愛される資格のない者を愛するのです。
それは、自然にわきあがってくる感情ではなくて、強い意志に裏打ちされた愛です。
気分や感情の変化でくじける愛ではなくて、確固たる意志によって強く立った愛です。
 
もう一方の新約聖書の箇所、ルカ福音書の第23書34節をお読みしましょう。
ここは、イエスさまが十字架につけられたときの言葉です。
ここに来る前に、イエスさまはムチをうたれ、いばらの冠を無理やりにかぶせられました。
また、十字架をかついで街中を歩き、道端の群集からののしられました。
そして、十字架にくぎで打たれ、十字架上に上げられ、さらに罵声を浴びていたのです。
そこで言われたイエスさまの第一声が、
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
だったのです。
 
イエスさまをののしり、傷つけ、死にまで追いやろうとしている人たちに対して、神様に赦しを願っているのです。
つまり、イエスさまは彼らを赦しているのです。
人間的に考えたら、どうしたって赦せないような人たち、赦す価値があるようには思えない人たちを、イエスさまは赦しているのです。
愛という言葉は直接使われてはいませんが、ここには大きな愛があります。
そして強い意志があります。
「赦せない者を赦す愛」「赦す価値のない者を赦す愛」です。
 
さらに、私たちはこの2箇所から、もうひとつのことを知る必要があります。
それは、神様が私たちを愛し(イザヤ書)、イエスさまが私たちを赦した(ルカ福音書)ということです。
つまり、主語は神様であり、イエスさまであるという事です。
もっと言えば、主語は私たち人間ではないという事です。
不完全で弱い私たちが、へとへとになりながら、愛せない者を愛し、赦せない者を赦すという脆弱な愛ではないのです。
全知全能の神様が、イエスさまが、全力を注いだ強い意志をもって、赦される価値のない私たちを赦し、愛される価値のない私たちを愛するということなのです。
 
キリスト教は愛の宗教であり、赦しの宗教であります。
しかし、もう少し補足するならば、「愛される宗教」であり、「赦される宗教」であるのです。
そして、その結果として、「喜びの宗教」でもあります。
 
私たちが神様や他の人を愛するよりも、何万倍も何百億万倍も、神様は私たちを愛しています。
私たちが自分自身や他の人を赦すよりも、何万倍も何百億万倍も、神様は私たちを赦しています。
私たちが神様や自分自身や他の人を喜ぶよりも、何万倍も何百億万倍も、神様は私たちを喜んでいます。
これがキリスト教の基本です。
 
このような大きな愛を受けるために私たちは何かをしたでしょうか。
いいえ、していません。
私たちに何か愛されるための資格があったでしょうか。
いいえ、何もありません。
喜ばれる根拠になる行動があったでしょうか。
いいえ、何もしてません。
 
しかし、その価値も資格もない者を神様は愛し、赦し、喜んでくださるのです。
それは、私たちが神様の大切な作品であり、神様にとっては高価で貴い宝物だからです。
神様の宝物として、たくさん愛され、たくさん赦され、たくさん喜ばれましょう。
そうすればあなたの周りに、愛の環境、赦しの環境、喜びの環境ができます。
そして、あなたは愛と赦しと喜びの中で、自由に生きることができるのです。
 
あなたのためにお祈りしています。



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