シリーズ 「イエスさまと話そう」34
『ヨハネ 〜私たちのアイデンティティー〜』 ヨハネ 13:21-25
皆さんのアイデンティティーは何ですか?
あなたは、何者ですか?
こう聞かれたなら、「私は○○です」と答えますね。
その○○の中に入る言葉は、あなたにとって満足がいくものですか。
言い換えれば、自分自身のアイデンティティーに満足していますか。
今週は、聖書を通して、私たちのアイデンティティーを考えてみたいと思います。
今週の聖書の箇所は、ヨハネ福音書第13章です。
異を唱える学説もありますが、ヨハネ福音書の筆者は十二弟子の一人のヨハネです。
聖書中の彼の書いた書簡は、ヨハネの手紙(第1,2,3)、ヨハネの黙示録があります。
彼は「雷の子」と呼ばれるほどに、気性の荒い弟子でした。
しかし、彼の書いた手紙を読むと、愛にあふれていて、本当に愛の人なんだなぁと思わされます。
神様の愛を本当に受けた人しか書くことのできない、すばらしい書簡です。
神様の愛によって変えられたんですね。
第1の手紙の第4章10節は、2004年度のサンパウロゴスペルハウスの年間聖句でもありました。
さて、このヨハネ福音書は、紀元後90年以降に執筆されたと言われています。
イエスさまが十字架にかかったのが紀元30年ごろですから、イエスさまの死後60年以上経ってからの執筆ということになります。
不思議なことに、この福音書には十二弟子ヨハネの名前が出てきません。
ヨハネという名前は24回出てくるのですが、そのうち20回が洗礼者ヨハネのことで、残りの4回はペテロの父ヨハネのことです。
間接的にヨハネをさす言葉には、「ゼベダイの子ら」(21:2)という言葉があるのですが、他にヨハネをさす固有名詞がないのです。
しかし、十二弟子の中でも中心的な役割を果たす彼は、この福音書では、別の称号で登場するのです。
それが、今回の聖書箇所です。
弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者(23節)です。
このほかの箇所には、
愛する弟子(19:26),
イエスが愛された、もうひとりの弟子(20:2),
イエスの愛されたあの弟子(21:7),
イエスが愛された弟子(21:20)
があります。
いずれも、ヨハネの事をさしているのです。(異論を唱える学説もあります)
ある学者たちは、ヨハネが自分自身を「愛された弟子」と書くのが傲慢すぎると考え、福音書の筆者は十二弟子ヨハネではないと考えています。
私と妻が結婚する前、結婚するなどと思ってもいなかった頃のことです。
妻は、私が言った一言に心を乱されていました。
私は言ったことすら忘れているのですが、彼女の心にスパッと切り込んだ言葉だったのです。
それは、「僕は神様の一人っ子」。
彼女も当時すでにクリスチャンでしたから、
「私だって神様の子どもなのに、何でこの人は一人っ子なんて言うんだろう」
と怒っていたようです。
しかし、もう一方で、「あの信仰、あの神様への信頼はどこから来るんだろう」という興味も持ったのです。
こんなことがきっかけとなって、お付き合いが始まり、結婚することができたのです。
今では彼女も、「私も一人っ子」と言っています。
ヨハネは60年間、イエスさまは何者だったのかを考え続け、求め続けていました。
弟子として、イエスさまとともに暮らした伝道生活を振り返り、十字架にいたるまでのイエスさまを思い起こしました。
そして、十字架でのいのちがけのイエスさまの愛を感じ続けてきたのです。
その結果彼が得たものは、次の聖書箇所に要約されていると言って過言ではないでしょう。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(15:13)
この大きな愛、いのちがけの大きな大きな愛を通して、ヨハネは自分自身を見たのです。
するとそこには、「イエスが愛しておられた者」「イエスが愛された弟子」である自分しか見えなかったのです。
これは傲慢ではありません。イエスさまの愛に対する完全な信頼です。
ヨハネにとって、「イエスさまに愛された者」以外のアイデンティティーはありえなかったのです。
それほどに大きな愛の力が、彼を包んでいたのです。
そして、イエスさまは、ヨハネのためだけに十字架にかかったのではありません。
ヨハネだけの救い主でもありません。
ヨハネだけを愛していたのでもありません。
イエスさまは、すべての人の救い主です。
すべての人のために十字架にかかり、すべての人を愛しているのです。
ですから私たちは、ヨハネと同じくらい愛されているのです。
イエスさまの愛に対して、完全に信頼していいのです。
イエスさまは、私たちに新しいアイデンティティーを与えてくれました。
それは「愛されている者」。
このアイデンティティーは、イエスさまの十字架が証明します。
いのちがけの愛が証明書なのです。
だから、「あなたは誰ですか?」と聞かれたなら、私たちは胸を張って答えましょう。
「私はイエスさまに愛されている者です」
あなたのためにお祈りしています。
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