「ダビデの三勇士」 サムエル記第2 23:8-17
ダビデは、ユダヤの2番目の王様で、旧約聖書の中で勇敢なヒーローとして語られる人です。
また、詩篇の中には彼の作品が多くあり、詩人としても知られています。
そして、信仰者としても大変立派な人でありました。
今週は、そのダビデと部下の三勇士とのエピソードです。
三勇士は、これまでも輝かしい実績をあげてきましたが、ここでさらに名を上げることになります。
ペリシテ人は、たびたびユダヤに攻め込んできては、戦いを繰り広げました。
今回もその1つなのですが、ベツレヘムをペリシテ人に攻め込まれ、ダビデはアドラムのほら穴に陣を敷きました。
ダビデは故郷のベツレヘムが恋しくなり、そこの井戸の水を欲しがります。
そこで三勇士は、いのちをかけてペリシテ人の陣を突破し、ダビデのために水を持ち帰ってきます。
しかしダビデは、それを飲もうとはしませんでした。
「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」(17節)
ダビデは、自分の故郷を懐かしむ感傷のために、いのちをかけた三勇士に感動したのです。
そして、そのちっぽけな感傷のために、いのちをかけた水を飲むことなどできないと、神様に注いでしまったのです。
ダビデは、この水をただの飲み水とは考えず、彼らのいのちの代償と考えたのです。
「実用聖書注解」には、「部下も部下なら、主君も主君である。」とあきれるように書いてあります。
ここで私たちは現代に生きるキリスト者として考えてみましょう。
あるキリスト者は、イエスさまに病気の癒しを望みます。
また、別のキリスト者は、仕事の成功を望みます。
心の病の癒しを求める人もいるでしょう。
勉強ができるように、学業成就を望む人もいるでしょう。
家族関係、人間関係の修復を望む人ももちろんいるはずです。
しかし、イエスさまは何のための十字架にかかったのでしょうか。
それは、私たちの救いのためです。
罪に縛られている私たちのたましいの解放のためです。
病気は医者でも治せます。
仕事の成功を望むのなら、コンサルタント会社でも手伝えます。
勉強の成績を上げたいのなら、手前味噌ですが、学習塾ゴスペルハウスに来ればいいのです。
心の病は、カウンセラーや専門の医者でも対応します。
もちろん、イエスさまはこれらすべてのことが可能です。
完璧に成し遂げる力を持っています。
私たちのために、喜んでそれをなしてくださるでしょう。
しかし、イエスさまはそのために来たのではないのです。
そのために十字架で死んだのではないのです。
私たちの感傷のために、イエスさまの十字架を使うのはやめましょう。
ダビデがしたように、それを神様にお返ししてしまいましょう。
そして、十字架の本当の目的を望みましょう。
それは、イエスさまの十字架の贖いによって、罪赦され、神様の子どもとして、神様の永遠の愛の中で生きることです。
それこそ、神様が私たちに約束している「神様の国」であり、「神様の義」なのです。
そして、それを求める時に、その他のすべての物は与えられると約束されているのです。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)
私たちが考える最高よりももっと良い最高が、神様によって準備されているのです。
このことを知る時に、私たちは喜んで十字架の贖いを受けることができます。
神様の愛を、たましいいっぱいに受け、愛と喜びと平安にあふれてすすむことができるのです。
神様の前で、イキイキと、力強く生きることができるのです。
そう、まるでダビデのように。
イエスさまは、いのちをかけてあなたを救いました。
あなたのたましいの救いのために、いのちを捧げたのです。
罪の束縛からあなたを自由にするために、十字架で死なれたのです。
決して、ただの医者ではなく、カウンセラーでも教師でもありません。
あなたのための、たった一人の救い主です。
この事実、「神様の義」を、喜んで受け取りましょう。
そこから、あなたとイエスさまとの新しい歩みが始まります。
永遠の愛と喜びと平安とは、あなたのものです。
あなたのためにお祈りしています。
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