シリーズ イエス様と話そう35 
『バプテスマのヨハネ 〜イエスさまの洗礼〜』 マタイ 3:13-17 
  
今週の聖書箇所は、イエスさまの洗礼の場面です。 
イエスさまは、バプテスマ(洗礼者)のヨハネから洗礼を受けました。 
ヨハネの洗礼は、現在のクリスチャンの洗礼とは少しちがいがあります。 
現在のクリスチャンの洗礼は、「聖霊が罪人の心に働かれることによって罪の悔改めと十字架のみわざへの信仰が与えられ、滅びの子としての状態から救われて神の子とされるという信仰の出発」(キリスト教辞典)という洗礼です。 
それに対して、ヨハネの洗礼は、罪の悔い改めの洗礼だったのです。 
現在の洗礼のような、救われ、神様の子とされるものではなかったのです。 
  
イエスさまには、罪がありませんでした。 
ですから、罪の悔い改めのヨハネの洗礼を受ける必要はなかったのです。 
だからヨハネも断ろうとしています。(14節) 
しかし、すべての正しいことをすると、イエスさまが押し切ったかたちで、洗礼が行なわれたのです。 
  
なぜ、そこまでして、イエスさまは洗礼を受けたのでしょうか? 
それは、イエスさまが救い主だからです。 
  
海水浴場の救助員を思い浮かべてください。 
救助員はもちろん泳げなくてはなりません。 
そうでなければ、溺れている人を救うことができないからです。 
しかも、救うためには、溺れている人のところへ飛び込まなくてはならないのです。 
遠くから「ガンバレー!」と声をかけるだけでは、溺れている人を救うことはできないのです。 
  
同じように、救い主には、罪があってはなりません。 
罪があったら救うことができないからです。 
しかも、罪人から遠く離れていては救えないのです。 
イエスさまはヨハネに洗礼を受けようとしている罪人に混じっていたのです。 
罪なき救い主が、罪人のところまで来てくれたのです。 
  
思えば、イエスさまの誕生は、家畜小屋でした。 
そして、罪人に混ざって洗礼を受けたのです。 
イエスさまは、すべての人を救うために、すべての人よりもご自身を低くされたのです。 
すべての人の罪を担うために、虐げられ、罪を負った人のようになられたのです。 
そして、十字架へ・・・ 
  
イエスさまが洗礼を受けられたとき、天から声がしました。 
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(17節) 
これは、すべての人の罪を負って、救い主として歩み始めるイエスさまにとって、とてもふさわしい言葉です。 
そして、神様の愛の力強い宣言です。 
この宣言の力によって、イエスさまはこれからの使命を全うしたと言って過言ではないでしょう。 
すべての誘惑を、この宣言の力で退けました。 
実際、このすぐ次の箇所で、イエスさまは荒野でサタンの誘惑を受け、それを退けています。 
それほど力ある宣言なのです。 
  
そして、十字架の死に至るまで、イエスさまは忠実であったのです。 
それは、とりもなおさず、私たちの救いのためです。 
  
そして、私たちはイエスさまの十字架の救いによって、罪赦され、神様の子どもとされたのです。 
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 
この言葉は、はじめは救い主イエスさまにかけられた、イエスさまにふさわしい言葉でした。 
しかし、イエスさまにすべての罪を担ってもらった私たちは、もうすでに神様の子どもです。 
ですから、この宣言は、私たちにとってふさわしい言葉なのです。 
私たちは、神様に愛され、喜ばれている存在なのです。 
私たちは、この宣言の力を受け入れ、自分自身を愛し、自分自身を喜びましょう。 
  
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 
この宣言の力によって、私たちはすべてののろいから解放されます。 
すべてのマイナスの思いから解放されます。 
もう、何も私たちを罪の奴隷とすることはできないのです。 
愛と喜びの中で生きていきましょう。 
  
あなたは、神様に愛されています。 
あなたは、神様に喜ばれています。 
だから、あなたは、あなた自身を愛していいのです。 
あなた自身を喜んでいいのです。 
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 
力強い神様の宣言が、いま、あなたに臨みます。 
  
あなたのためにお祈りしています。  
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