シリーズ メッセンジャーはイエスさま 07 
『イエスさまの戒め』 ヨハネ 15:9-17 
  
今週は、アドベント第2週です。 
今週の聖書箇所は、イエスさまが十字架にかかる前に弟子たちにした、最後の説教、惜別説教といわれる箇所です。 
十字架を目前にして、イエスさまが弟子たちに最後のメッセージをします。 
その主題は、「イエスさまの戒め」です。 
  
この戒めは、愛の戒めです。 
12節、17節にあるように、戒めの内容は、「互いに愛し合うこと」です。 
しかし、その前提は、「イエスさまの愛の中にとどまること」(9節)です。 
互いに愛し合うことが強調されることが多いのですが、私たちの中には無限の愛はありません。 
ともすると自己中心的になりがちな、弱い不完全な愛しかないのです。 
愛し合いなさいと言われても、それを全うするエネルギーは、私たちの中にはないのです。 
互いに愛し合うことを可能にするためのエネルギーが、イエスさまの愛の中にとどまることなのです。 
  
イエスさまの愛とは何でしょうか。 
それは、私たちのために、十字架について、いのちを捧げられた愛です。 
ですから、「罪の赦しのための十字架を受け入れ、救われた者として生きる」これが、イエスさまの愛の中にとどまることです。 
  
なぜ、こんな簡単なことを、イエスさまはわざわざ惜別説教で伝えたのでしょうか。 
それは、簡単すぎるからです。 
  
私が数学の授業で解き方を教える時に、できるだけ簡単に解けるように教えます。 
20年近くの塾講師の経験と研究の中で、最高の解き方と思われるものを提供するのです。 
それに何か付け加えることも、何か減らすことも必要ないようにします。 
もっと言えば、何か付け加えたり減らしたりすれば、不要なミスをすることになるのです。 
時々、意欲の空回りした生徒が、自分なりの工夫を加えて解こうとします。 
そうすると、簡単に解けるはずの問題まで解けず、混乱することになります。 
解き方が簡単すぎるので、何かしたくなってしまうのです。 
  
つたない私の授業でさえ、付け加えることによって、改悪されるのですから、完璧なイエスさまの言葉に、何も付け足す必要は無いのです。 
何も付け足してはいけないのです。 
  
しかし、簡単すぎると、逆に不安になるものです。 
それで、従いにくくなるのです。 
・・・であるべき、という、それまで持っていた常識が、大きな壁となって私たちの前にそびえ立つのです。 
「イエスさまの愛を受け入れるだけでは足りない。それじゃ申し訳ない。私たちも何かしなくてはいけない。」 
このような不要な意気込みが湧き上がってくるのです。 
  
イエスさまは、誰も到達できないような大きな愛で、私たちを愛してくださったのです。 
13節は、私たちに友を愛するために死ぬよう強要しているわけではありません。 
イエスさまの十字架の愛をあらわしているのです。 
この愛の中に生きるなら、私たちはその愛によって、神様の子とされるのです。 
私たちの努力によってではなく、一方的なイエスさまの愛によってです。 
  
この愛を受け入れた時、私たちは人の力によって生きるのではなく、神様の力によって生きる人生が始まるのです。 
人がどんな条件であったかは、何も問題ありません。 
なぜなら、「神様が私たちを選び、任命し、実を結ばせ、与えてくれる」(16節)からです。 
そして、その人生は、それまでの常識を超えた、喜びと愛の人生です。 
  
簡単で、大きな大きな愛の戒めに、いま、飛び込みましょう。 
  
イエスさまが、あなたに新しい戒めを与えました。 
それは、イエスさまの愛の中で生きること。 
いのちがけの愛の中で生きること。 
あなたの常識を捨てて、神様の大きな愛の中で生きましょう。 
喜びにあふれ、愛し、愛されて生きましょう。 
  
あなたのためにお祈りしています。 
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