シリーズ イエスさまのたとえばなし 12 
『放蕩息子のたとえ』 ルカ 15:11-32 
  
今週の聖書箇所は、「放蕩息子のたとえ」として、とても有名な箇所です。 
しかし、この聖書箇所を読んでいただくとわかるように、主人公は放蕩息子(弟)ではなくて、父です。 
ですから、内容を重視して言うならば、「愛する父親のたとえ」とした方がふさわしいでしょう。 
もちろん、父親にたとえられているのは神様です。 
  
身勝手に家を出て、放蕩で身を崩し、ボロボロになって帰って来た弟に対して、父は赦し、そして愛します。 
この愛する姿が、このたとえの中心です。 
父は弟に対して、一番良い着物を与え、手に指輪をはめ、足にくつを履かせ、肥えた子牛を料理します。 
一番良い着物は栄誉・栄光、指輪は権威、くつは自由、肥えた子牛は喜びを表します。 
しかも、「そのうち、成長に応じて与える」のではなく、「急いで」与えるのです。 
  
これは、私たちを見る神様の態度です。 
イエス・キリストの十字架の贖いを通して神様は私たちをこのように扱われるのです。 
神様は私たちに栄誉・栄光、権威、自由を与え、私たちを喜ぶのです。 
私たちは神様の子どもとしての特権を得ているのです。 
  
このたとえが語られた背景には、次のような発端があります。 
15章1〜2節です。 
さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」 
  
この後に、前回の礼拝でお話しした2つのたとえばなしをし、次いでこの箇所となっているわけです。 
ですから、この箇所で弟は取税人や罪人たちを表しています。 
言い換えれば、自らを悪いと認めざるを得ない人たちです。 
また兄は、パリサイ人や律法学者を表します。 
自らを正しいと思っている人たちです。 
ここで、兄も弟もはじめは父の愛に気がつきませんでした。 
なぜ両者ともにこんなに大きな父の愛に気がつかなかったのでしょう。 
  
弟は「待ちきれなかった」のです。 
愛ある父親は、一番良い時期に子どもたちに財産を分け与えたことでしょう。しかし、彼はその愛を待ちきれなかったのです。 
そして自分の思いのままに行動し、身を崩しました。 
私たちは注意したいものです。 
一見正しそうに見えることでも、そこに神様の導きがないなら、神様の御旨がないならば、それは罪です。 
何か悪いことをするのが罪なのではなくて、良いことをしていても、神様抜きのものならば、それが罪であると聖書は言うのです。 
必要なのは、神様の導きを待つことです。 
  
しかし、身を滅ぼした彼に大きな転換点が訪れます。 
我に返った(17節)のです。 
口語訳聖書では、本心に立ち返ってと書いてあります。 
そして、続いてこのようにあります。 
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。(20節) 
弟は自分の本来あるべき場所を知りました。 
父親の大きな愛が彼の本来の場所です。そして彼はそこに帰ったのです。 
これが悔い改めです。 
悔い改めとは、悪いことを後悔し、反省するという行為ではなく、ただ赦されるためにする宗教的な儀式でもありません。 
私たちが本来あるべき場所、それを認め、そこに帰ることです。 
神様の愛の中が本来の居場所と知り、そこに帰ることなのです。 
  
兄はどうでしょうか。 
彼は「望みきれなかった」のです。 
父親の愛に希望を持つことができなかったのです。 
彼は父から罰せられることを恐れ、父の愛に目を向けることができませんでした。 
パリサイ人、律法学者たちは神様の刑罰を恐れるゆえに、一生懸命に規則を守りました。 
また、守れない人たちが神様に罰せられることさえ望んでいたのです。 
それは、他人が落ちることによって自分の地位が相対的に上がるような気がするからです。 
シーソーと同じです。相手が下がれば自分が上がったような気がするのです。 
ですから兄は、弟が赦され、愛されたときに怒ったのです。 
弟が上がることが、自分が下がることを意味するかのように感じたのです。 
  
先程も話しましたが、このたとえは、パリサイ人や律法学者に向けてのものです。 
イエスさまは彼らに悔い改めを迫っているのです。 
「本当の神様を知りなさい。愛の神様を知りなさい。本当の神様は、あなたがたが思っているような恐怖の神様ではありません。神様の愛を待ち望みなさい。そして、あなたの本来ある場所を知り、帰ってきなさい。」 
  
詩篇27編14節には次のように書いてあります。 
待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。 待ち望め。主を。 
  
神様の愛を待ち望み、それを十分に受け、雄々しく、力強く、正々堂々と生きる。 
神様の子どもとして、神様の愛の中で、イキイキと生きる。 
これが、神様が私たちに望まれている生き方です。 
  
このあと、兄がどうなったかはイエスさまは語られませんでした。 
彼が父の愛に気がついたのか、気がつかなかったのか。 
父の愛に戻ったのか戻れなかったのか。 
それは謎のままです。 
いわば、未完のたとえばなしです。 
そして、このたとえばなしのフィナーレは、私たちの人生に預けられています。 
  
神様は、あなたを愛しています。 
その愛を待ちましょう。 
その愛に望みをかけましょう。 
イエス・キリストの十字架によって、すでにあなたは神様の子どもです。 
あなたの居場所は、神様のあたたかい腕の中です。 
愛にあふれた、あなただけの指定席です。 
  
あなたのためにお祈りしています。 
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