シリーズ イエスさまのたとえばなし 13
『ぶどう酒と皮袋のたとえ』 マタイ 9:14-17
(マルコ 2:18-22、ルカ 5:33-39)
今週の聖書箇所は、「ぶどう酒と皮袋のたとえ」です。
と言っても、この箇所は1つのたとえだけではなくて、3つの小さなたとえが集まって書かれています。
花婿のたとえ、古い着物と新しい布のたとえ、ぶどう酒と皮袋のたとえです。
当時のまじめな(熱心な)ユダヤ人は、週に2回(月曜と木曜)の断食をしていました。
それが敬虔のあらわれと思っていたのです。
しかし、彼らは断食を通して神様との交わりを深くするのではなく、断食自体が目的となり、本来の意味を失っていました。
しかも、ここで特筆すべきことは、イエスさまの弟子たちの断食しないことについて質問しているのが、いつものパリサイ人や律法学者ではないという点です。
質問したのは、バプテスマのヨハネの弟子たちです。
バプテスマのヨハネは預言者です。
それまでの預言者は、イエスさま(救い主)の将来における到来を告げていました。
しかし、バプテスマのヨハネは、イエスさまを指差し、「この方だ」と言ったのです。
救い主を具体的に指し示した唯一の預言者です。
いわば、最高の預言者です。
しかし、その弟子たちでさえ、形式にとらわれ、救い主の本質を見落としてしまったのです。
それほどまでに、当時のユダヤ人の信仰は形式にしばられていたのです。
これはもう信仰ではありません。
神様抜きに、信仰の「ふり」をしているだけです。
イエスさまは、神様の私たちに対する愛の具体的なあらわれです。
神様の私たちに対する喜びの具体的なあらわれです。
神様が私たちに下さる永遠のいのちの具体的なあらわれです。
まったく新しい布です。
まったく新しいぶどう酒です。
それは古い着物とは合いません。
また、古い皮袋は張り裂けてしまいます。
古くなってしまった、そして、固くなって弾力を失ってしまった信仰(のようなもの)には、イエスさまの下さる愛・喜び・いのちは入りきれないのです。
だから、考え方を変えなさい、と、イエスさまは訴えているのです。
教会に若い人たちを呼ぶために、いろいろと方法を工夫する事があります。
その時に、このたとえばなしは、よく標語のように使われます。
「新しい皮袋が必要だ。古い讃美歌や聖歌をやめよう。若い人たちに受けるようにゴスペルソングにしよう。オルガンやピアノの演奏でなく、ギターやドラムを使って、新しい賛美をしよう。若者が喜ぶように、漫才や落語や演劇を入れよう。有名な芸能人も呼べばいい。新しい方法が必要だ。」
しかし、そうではありません。
方法を改めよと言っているのではないのです。
私たちは何か行動を起こしたから救われたのではありません。
私たちが神様の作品であるが故に、私たちは神様に愛され、神様は救い主・イエスさまをお送りになったのです。
イエスさまが十字架にかかり、私たちの救いの道を作られました。
私たちはその救いを受け入れたから、神の子どもとして救われたのです。
イエスさまは、方法の変化ではなく、本質的な変化を求めているのです。
その本質とは何でしょうか?
それを明らかにするのが、花婿のたとえです。(15節)
花婿につき添う友に要求される事柄は何でしょうか。
それは、花婿の招きに応じて、花婿と共にいることです。
花婿が用意した喜びの宴、それは花婿の愛の表現です。
その宴の中にいることです。何かを用意したり、苦労することではないのです。
旧約聖書で、花婿は神様をたとえます。
また、新約では、イエスさまをたとえます。
ですから、私たちに要求されていることは、神様(イエスさま)と共にいることです。
招きに応じ、喜びの中にいることです。
十分に愛されることなのです。
奴隷のように、苦しみながら、涙を流しながら、悲しみをもって仕えるのではありません。
愛を受け、喜びの中にいることなのです。
本質が変わったときに、行動が変わるのです。
方法が変わるのです。
これが聖書の原則、キリスト者の原則です。
行動や方法が変わって本質が変わるのではありません。
神様と私たちとの間にある本質は、神様が私たちを愛していることです。
私たちはそれを受ける器であることです。
そして私たちが神様を喜びます。
しかし、その何万倍も何億倍も神様が私たちを喜ぶことです。
この愛と喜びといのちの本質の中を歩んでいきましょう。
新しい布のように力強く、新しい皮袋のように弾力をもって。
あなたは神様を愛します。愛せます。
その何億倍も神様はあなたを愛しています。
あなたは神様を喜びます。喜べます。
その何億倍も神様はあなたを喜んでいます。
これがあなたと神様との本質的な関係です。
これが原則です。
愛と喜びの原則なのです。
あなたのためにお祈りしています。
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