シリーズ イエスさまのたとえばなし 14 
『宝と真珠のたとえ』 マタイ 13:44-46 
  
今週の聖書箇所はとても短いです。 
この短い箇所で、イエスさまは2つのたとえばなしをされています。 
2つは共に天国についてのたとえばなしです。 
  
この箇所は、天国の価値の大きさ、すばらしさを語っています。 
それで、次のようなメッセージも可能なわけです。 
「天国(神様と共に住むこと)の価値は非常に大きいのです。 
だから、全財産を投げ打ってでも手に入れなければいけません。 
あなたは、価値に見合った犠牲を差し出していますか?」 
  
しかし、この解釈は間違えています。 
なぜならば、このたとえばなしを語ったのが、イエス・キリストだからです。 
もし、釈迦やマホメットが語ったたとえならば、そういう解釈も可能かもしれません。 
  
しかし、イエスさまは救い主です。 
私たちを救うために、ご自身を捧げてくださった方です。 
私たちのための、完全・完璧な犠牲となられた方です。 
そのイエスさまが、私たちに犠牲を求めるはずがないのです。 
  
この2つのたとえは、類似点も多くありますが、違いもあります。 
まず、44節の宝のたとえからみていきましょう。 
このたとえばなしのポイントになる言葉は、「大喜びで」です。 
この言葉を読み飛ばすと、たとえがつかみにくくなります。 
天国を見つけたものは、まるで宝物を偶然発見した者のように大喜びするのです。 
  
当時のユダヤの世界では、宝を土に埋めて隠すことはよくあることでした。 
また、このような状況で宝を見つけた場合、それは、見つけた人の所有物になるのです。 
しかし、この人は畑ごと買ってしまったのです。 
あまりの喜びで、今まで自分が持っていた物が、ゴミ同様に見えてしまったのでしょう。 
それほど、天国はすばらしく、見つけた時の喜びが大きいというたとえばなしなのです。 
  
私がはじめて神様の愛を心の底から体験したとき、これはつまり、天の御国を発見したときなのですが、私はとっさに祈りました。 
「ああ、神様。この実感を私から取り除かないでください。 
今までの賜物も、今からの賜物も何もいりません。 
預言も、異言も必要ありません。 
仕事も、お金も、妻や子どもすらいりません。 
ただ、この愛の実感だけを取り除かないでください。」 
まったく非常識な祈りです。 
妻や子どもにとっては非常に不愉快な祈りかもしれません。 
しかし、これが本音だったのです。 
それは自己犠牲ということではなく、まったくの自然な祈りでした。 
しかし神様は、取り上げることはなく、それ以上に与えてくださる方なのです。 
  
また、パウロはこのように言っています。(ピリピ3:7-8) 
しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。 
  
偶然見つけた宝物に、大喜びする人の姿。 
これが、天の御国の住人の姿なのです。 
  
後半の真珠のたとえもほぼ同じですが、宝のたとえとの違いは、偶然見つけたのではなく、探し求めているということです。 
偶然見つけた天の御国も大きな喜びですが、探し求めてやっと見つけ出したときの喜びも、もちろん大きいのです。 
それで、すべてを捨てて手に入れます。 
  
偶然発見した場合でも、探し求めて得た場合でも、天の御国は私たちを心の底から変えてしまいます。 
大喜びの人生に変えてしまうのです。 
どうか、今、そのような人生でない方は、求めてください。 
探し求めるときに、神様は必ず応えて下さいます。 
そして、大喜びのあまり、すべてを捨てて神様と共に生きる人生がスタートします。 
これは強制的なものではありません。 
勝手に、自然にそうなってしまうのです。 
これが天の御国の力です。 
そのエネルギー源は、神様の愛です。 
  
ここで、もう1つ見ていかなければなしません。 
「天の御国は、・・・宝のようなものです。」(44節) 
「天の御国は、・・・商人のようなものです。」(45節) 
ちがいに気がつきますか。 
そうです。後半のたとえでは真珠が天の御国とはされていないのです。 
商人が天の御国だというのです。 
  
では、商人がすべてを捨てて手に入れたすばらしい値うちの真珠(46節)は何を表しているのでしょうか。 
それは、神様が一番大切なひとり子を捨ててまで愛した私たちなのです。 
イエス・キリストの十字架によって神様の子どもとされた私たちなのです。 
  
真珠は宝石の中でも最高の物とされていました。 
その中でも一番良い物、それが、神様から見た私たちの価値なのです。 
あなたは「自分はそんな価値がない」と思うかもしれませんが、証拠があります。 
それは、イエス・キリストの十字架です。 
それは、最高の宝物を手に入れるために、神様が支払った代価です。 
そして、その最高の宝物は、あなたなのです。 
  
私たちは神様の宝物なのです。 
最高の宝物なのです。 
神様にすべてを捨てさせるほどの価値があるのです。 
その宝物である私たちが、天の御国に触れるならば、喜びが大爆発します。 
そのとき、あなたの人生が変わります。 
あなたの人生に、リバイバルが起こるのです。 
  
あなたは、史上最高の真珠です。 
神様は、すべてを投げ打ってまで、あなたを手に入れました。 
あなたは、神様の最高の宝物なのです。 
神様は、あなたを愛しています。 
愛され、喜びに満ちて生きる。 
これが、神様への最高の奉仕です。 
  
あなたのためにお祈りしています。 
 |