受難節特別礼拝 「十字架前夜」 
ヨハネ 13:1-20 
  
3月25日は、イエス様が十字架にかかった日です。 
また、27日は、イエスさまの復活をお祝いするイースターです。 
なので、今週から、イエスさまの十字架に向けてのメッセージをしていきたいと思います。 
  
今週の聖書箇所は、十字架に架かる前の晩、最後の晩餐があった夜の出来事です。 
よく、「洗足物語」として知られているところです。 
  
当時のユダヤは、現在のようなコンクリートやアスファルトで舗装された道はありませんでした。 
また、履物は靴ではなく、サンダルのようなものでしたので、外出すれば、必ず足は砂ぼこりにまみれてしまいます。 
それを洗うのは、奴隷の仕事でした。 
  
しかし、ここでイエスさまは弟子たちの足をお洗いになったのです。 
ここに、十字架を翌日に控えているイエスさまの究極の謙遜を見ることができます。 
そしてイエスさまは、弟子たちにも互いに謙遜になるようにすすめます。 
いえ、イエスさまの謙遜によって、その愛の力によって、謙遜になれると宣言されているのです。 
  
これは、この物語に表された、疑いようのない真理です。 
しかし、さらにこの物語に隠されている、もうひとつの大きな真理を読み取ってまいりましょう。 
  
私は、日本の教会にいる頃、受難週に「洗足祈祷会」があると、絶対に出席しませんでした。 
それは、次のような屁理屈からです。 
「他の人の足は何人でも喜んで洗いますが、洗われるのは恥ずかしいからいやです」 
これはまったく間違った考え方なのですが、それほど他の人に自分の汚い足を差し出すことに抵抗があったのです。 
  
愛すべき使徒ペテロも、私と同じようにイエスさまにお願いしました。 
「決して私の足をお洗いにならないでください。」(8節) 
しかし、イエスさまは言われました。 
「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」 
一番醜いところ、自分ではどうしようもないところを、恥ずかしがらず、ありのままイエスさまに明け渡さなければ、イエスさまと何の関係もなくなるというのです。 
  
感情がストレートなペテロは、手も足も洗ってくださいとお願いします。 
しかし、イエスさまは「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」と言われました。 
当時、食事に招かれた人たちは、その準備として水で体を洗って準備してから、そこに出かけたのです。 
しかし、ユダヤの道路事情では足だけは何をしても汚れてしまうのです。 
そして、そこだけ洗うならば、全身が聖いとイエスさまは言うのです。 
  
罪の世界で、私たちはもがきながら生活しています。 
イエスさまを受け入れた後でも、罪の渦に翻弄され、悲しみに沈む事があります。 
しかし、その一番の弱点、泣き所、見せたくない欠点をイエスさまに明け渡すならば、その人は全身聖いとイエスさまは言うのです。 
  
私の一番の泣き所、弱点は、自他共に認めるとおり、はれる(長男・4歳)です。 
はれるが悲しんでいたり、苦しんでいたりする姿を見ると、自分の両手両脚がもがれるような痛み(もちろん、もがれたことはないのですが)を感じます。 
  
そのはれると昨日、幼稚園の同級生のお友達の家に遊びに行きました。 
そこではれるは、子ども部屋から追い出されて泣き、おもちゃの鉄砲で撃たれて泣き、おもちゃの刀で頭をたたかれて泣き、出て行けと言われて泣きました。 
その後、外で遊ぶときは、サッカーに入れてもらえず、自転車を貸してもらえず、シャボン玉を顔に吹きかけられました。 
まったく反撃することもなく、ただ耐えているだけのはれるでした。 
挙句の果てに、普通の服を着たままプールに落ち、同席したお母さんたちから白い目で見られてしまったのです。 
  
私とはれるは、とぼとぼ家に帰ってきました。 
はれるがシャワーを浴びているときに、私は神様に言いました。 
「神様、あさってはれるは5歳になります。 
神様から預かった、はれるの育て方は間違っていたのでしょうか。 
悲しいです。苦しいです。 
どうしたらいいんですか?」 
神様は祈りの中で、優しく答えて下さいました。 
「明け渡しなさい」 
私は、この悲しみ、苦しみを、神様に明け渡すことにしました。 
いえ、明け渡すこと以外に何もすることができなかったのです。 
  
夕食のとき、はれるが将来の希望を失っていないかと不安になり、聞いてみました。 
「はれるは大きくなったら、くまのプーさんになるの?」 
それが彼の希望だったからです。 
「違うよ」と彼は答えました。 
「じゃあ、バズライトイヤー?(トイストーリーに出てくる宇宙戦士)」 
これは、その前の希望でした。 
「違うよ。はれるは、大きくなったらパパになる。パパと一緒のようになる。」 
  
駐在員の方たちのように、すばらしいプールつきのマンションに住むわけでもなく、車もなく、立派なスーツを着ることもない父親。 
アイスクリーム1つねだっても「今日は我慢してね」としか言えない父親。 
ただ神様を愛し、家族を愛し、それしかない父親を見て、彼はそうなりたいと言ってくれたのです。 
私は、久しぶりにぼろぼろ涙を流しました。 
悲しみの涙ではなく、喜びの涙です。 
  
どうしようもない悲しみの底にあって、喜びの涙が流せる生活、それが、救い主と共に生きる生活です。 
イエスさまに悲しさを明け渡せる生活です。 
これが、聖い生活なのです。 
そして、イエスさまは、必ず最高の解決を下さいます。 
  
イエスさまは弟子たちに、そのようになれと言われたのです。 
イエスさまが受け入れたように、互いに弱点を受け入れ合う生活、悲しみや苦しみを主に明け渡し、喜びの涙を流す生活を求めたのです。 
求めただけでなく、十字架上の死によってそれを保証したのです。 
私はみなさんに断言できます。 
「必ずイエスさまは解決を下さいます。」 
  
あなたの深い悲しみを、神様は知っておられます。 
あなたの心の苦しみを、神様は知っておられます。 
その悲しみに、その苦しみに、神様は触れてくださいます。 
さあ、明け渡しましょう。 
喜びの涙を流すために。 
  
あなたのためにお祈りしています。 
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