シリーズ イエス様と話そう 11
『ギリシャ人の女』 マルコ 7:24-30
今週の聖書箇所の舞台は、ツロの町です。
ここは、現在のレバノンの南部に位置し、ユダヤ人の領土ではありませんでした。
イエスさまがユダヤ人の領土以外で活動なさるのは異例のことです。
ある学者によると、イエスさまが異邦人の領土へ出て行かれたのは、公生涯ではこの1回きりだそうです。
イエスさまはなぜ、異邦人の領土へ行かれたのでしょうか?
詳しくは書いてありませんが、静かな時間を持ちたかったことはわかります。
イエスさまは、迫り来る十字架への道(最後の戦い)の前に、静かな時間を持つためにこの土地に来たのでしょう。
ユダヤ人の領土には、もう、イエスさまが静かにいられる場所がなかったのです。
・パリサイ人や律法学者からの執拗な攻撃(口撃)があります。
・故郷ナザレの人々からの冷遇や悪意、殺意があります。
・他の多くの民衆は、イエスさまの奇蹟に熱狂しています。
このような状況では、異邦人の土地に行くしかなかったのです。
ユダヤ人は、異邦人の土地まではついて来ません。
ここで、イエスさまは、来るべき十字架のため、そしてその後の弟子たちのために静かな時間を持ちたかったのです。
しかし、イエスさまに静かな時間は来ませんでした。
スロ・フェニキヤ生まれのギリシャ人女性が、悪霊につかれた娘のためにイエスさまに願いに来たのです。
そしてイエスさまに願い続けます。
イエスさまは、彼女の願いを拒否されます。
「まず子どもたちに満腹させなければなりません。
子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」(27節)
彼女は答えます。
「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」(28節)
パンとは、神様の祝福のことです。
子どもたちとは、神様に選ばれた民のユダヤ人。
小犬とは、軽蔑をこめた言い方で異邦人のことです。
イエスさまは、福音には順序があると説いたのです。
まず、ユダヤ人だとおっしゃったのです。
彼女は答えます。
「小犬でもパンくず」と。
謙遜でしかも熱心に求める態度です。
彼女の謙遜さ・熱心さにイエスさまは同情し、願いを聞いた。
このように考えることもできます。
が、それは表層的な読み方でしょう。
この箇所は「謙遜推奨物語」や「熱心な祈り推薦箇所」ではありません。
当時ユダヤの国では、食事の時にフォークやスプーンを使いませんでした。
手でパンを裂き、手でおかずを取り、口に運んだのです。
食事中に手が汚れた場合は、パンでふいて、そのパンは捨てたそうです。
現代なら「食べ物を粗末にして」と怒られそうなものですが、当時はそういう風習だったのです。
彼女が「小犬でもパンくず」と言ったのは、こうした習慣が背景にあるからです。
イエスさまはご自身のことを「いのちのパン」(ヨハネ6章48節参照)とおっしゃいました。
しかし、現状はどうでしょう。
一番初めに気がつかなくてはならない律法学者は、イエスさまを拒否し、命まで奪おうとしています。
いのちのパンが与えられるはずのユダヤの民はイエスさまを理解できません。
イエスさまを追い回し、ついには休まるところがないために、イエスさまは異邦人の土地へ出て行かざるを得なくなったのです。
まさに、子どもたちが捨てたパンくずのような状態です。
彼女はそのような状態のイエスさまに対して「小犬でもパンくず」と言ったのです。
「小犬」と言う軽蔑に対して、「パンくず」と皮肉で返したわけではありません。
彼女は気がついたのです。
イエスさまこそいのちのパンであると。
そして、ユダヤ人から追われ、パンくずのような状態のイエスさまを見て「それでも救いはここにある」と確信したのです。
「あなたは私にとっては尊い尊いパンくずです。あなたはいのちのパンです。私はそれをいただきます。」
美しい信仰告白です。
なぜ彼女はこの真実に気がついたのでしょうか。
それは彼女が一貫してイエスさまだけを見つめ続けていたからです。
この箇所で彼女は一度もイエスさまから目を離していません。
イエスさまはそのような彼女に「ああ、あなたの信仰はりっぱです。」とおっしゃっています。(マタイ15章28節参照)
先週のペテロの失敗と好対照です。
イエスさまは私たちの光です。
彼女はその光を見つめ、彼女の目から光が入り、彼女の心を満たしたのです。
イエスさまの光が、彼女に信仰を与えたのです。
苦難の中でも、ユーモアとウィットに富んだ明るい信仰を。
そしてそのすてきな信仰は、あなたにも用意されているのです。
あなたの心に、喜びはあふれていますか。
あなたの顔に、ほほ笑みはありますか。
あなたの生活に、ユーモアやウィットはありますか。
もし足りないなら、ここに答えがあります。
あなたのための光、イエスさまを見つめましょう。
すべてを理解できなくたって構いません。
愛の光、いのちの光、喜びの光、平安の光で、心を満たしましょう。
あなたのためにお祈りしています。
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