12   片手のなえた人(話そう12 2004.07.24)
シリーズ イエス様と話そう 12
『片手のなえた人』 マルコ 3:1-6
 
簡単に安息日について説明します。
安息日とは、週の7日目のことです。
神様がこの世を6日間で創造され、7日目に休んだことに由来する日です。
神様を礼拝するための安息の日・聖なる日です。
すべての労働が禁止され、人々は労働から解放されます。
そして、神様の愛の御業、創造と救済に思いをはせる日なのです。
 
ところが当時のユダヤでは、安息日を厳密に守るため数々の規定が人間によって作られていきました。
禁止される行為は大きく39種類あり、その中で各々6項目の細則が作られ、結局234項目(39×6)にも及ぶ禁止事項が列挙されました。
たとえば、次の行為は違反です。
安息日に何かしようと計画を立てること。
働こうと考えること。
戦うこと。
ユダヤ人はこれらの規則を厳密に守ろうとしていたため、戦争中、安息日に攻撃されても何も反撃せず殺されたという歴史的な事実があります。
そして、これらの項目を守ることが重要視されるあまり、本来の目的を見失い始めました。
労働から解放されて、愛の神様を思うための安息日ではなく、規則にがんじがらめの安息(できない)日になってしまったのです。
神様を思うための手段であった安息日やその規則が、手段ではなく目的化されてしまったのです。
 
その安息日に、イエスさまはパリサイ人たちの会堂で教えておられました。
そこには、片手のなえた人がいました。
パリサイ人たちが連れてきたのです。それはイエスさまを陥れるためです。
律法では、安息日に人を癒すことは禁止事項です。
もしイエスさまが彼を癒すなら、イエスさまは律法違反者とされます。
もし癒さないなら、イエスさまの説いていた愛や憐れみは偽物だ、と攻撃できます。
片手のなえた人は、イエスさまを陥れるための罠・道具として連れてこられたのです。
パリサイ人たちは彼を人間として扱っていません。
彼らの都合のための犠牲者です。
そこには愛のかけらも見ることができません。
 
そしてパリサイ人たちは、神様の言葉すら自分勝手に使おうとしています。
本来、神様の言葉は、愛の言葉です。
いのちの言葉です。
安息日は、神様から人間に与えられた愛の贈り物であったはずです。
しかし彼らは神様から与えられた安息日、人を生かすための安息日をイエスさまを陥れるために、裁くために、殺すために使っています。
 
イエスさまはパリサイ人たちの挑戦を受けました。
「立って、真中に出なさい。」(3節)
会堂に緊張が走ります。
パリサイ人は、攻撃するためのてぐすねをひいています。
癒しても、癒さなくても攻撃が始まります。
他の聴衆も律法は知っています。
「いくら近頃評判のイエスさまでも、安息日に癒すのは赦されないんじゃないかな」
きっとそう思っていることでしょう。
いや、聴衆だけでなく、彼(片手のなえた人)本人すら、今日は癒すべきではないと思っているのではないでしょうか。
 
イエスさまは言われました。
「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」(4節)
イエスさまは愛を発信しました。
形式だけになってしまった律法、人々を自由にするのではなくがんじがらめにしてしまった規則を超えた愛を発信したのです。
イエスさまにとって、律法よりも優先すべきことは愛なのです。
 
音叉(おんさ)というものがあります。
弾くとポーンと音がでます。
1つの音叉で出る音はいつも同じ高さです。
ラの音を出す音叉はいつもラなのです。
同じ高さの音を出す音叉を二つ用意して、片方だけを弾きます。
すると、弾いた方だけではなく、弾いていない方の音叉も鳴り出すのです。
これを共鳴といいます。
違う高さの音を出す音叉では共鳴は起こりません。
また、音叉に何かが絡みついていれば、共鳴できません。
 
ここで、イエスさまは愛の音叉を鳴らしました。
律法を超える神様の愛を高らかに鳴らしたのです。
会堂中に愛が鳴り響きました。
片手のなえた人の心の中にある愛の音叉は共鳴しました。
彼の心はイエスさまの愛で満たされたのです。
 
その時、イエスさまは言われました。
「手を伸ばしなさい。」(5節)
彼は手を伸ばしました。
何も理屈を言わず、彼は手を伸ばしたのです。
「安息日にこんなこと」「どうせ俺なんて」「今、伸ばすのは律法違反!」
これらすべての消極的な思いに打ち勝ったのです。
彼の心の中の共鳴した愛が、彼から恐れを取り除いたのです。
愛の勝利です。
 
会堂の真ん中に立っている彼の心の中で共鳴し始めた愛は、会堂いっぱいに響き、さらに多くの共鳴を生み出します。
彼の周りの聴衆の愛の音叉も共鳴しました。
彼らはイエスさまの愛を受け入れ始めたのです。
その証拠に、この後にイエスさまについていく者がおこされています。
 
しかし、がんじがらめになった音叉は共鳴できませんでした。
そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。(6節)
何と恐ろしいことでしょう。
彼らは礼拝そっちのけで出て行ってしまいました。
そして、聖なる安息日に殺人を計画し始めたのです。
これはもちろん、安息日の規則にも違反しています。
安息日の規則も、自分たちには身勝手な適用をしています。
彼らにとっては、律法よりも優先すべきことは保身でした。
 
地上での生涯の間、イエスさまは愛の音叉を鳴らし続けました。
十字架上でさえ、イエスさまは高らかに愛の音叉を鳴らされました。
この愛の大音響で、神殿の幕さえ真っ二つに裂けたのです。
それは、2000年後に生きる私たちのため、私たちの愛の音叉が共鳴するためなのです。
 
イエスさまは、生涯をかけて、命をかけて愛の音色を高らかに鳴らされました。
あなたの中にある愛の音叉を鳴らすためです。
心を開いて、イエスさまの愛を受け入れてください。
あなたの愛の音叉に絡みつく、すべてのマイナスな思いを取り除いてください。
経験や知識や常識さえも、愛の共鳴には不要です。
イエスさまの愛を受けて、高らかに愛の共鳴を起こしましょう。  
 
あなたのためにお祈りしています。



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