シリーズ イエス様と話そう 13
『百人隊長』 ルカ 7:1-10
百人隊長というのは、名前の通りローマの軍隊の歩兵100人の指揮官を指します。
ローマの軍隊の現場(戦場)での実際の指揮官といえる役職です。
100人の兵士の命にかかわる指揮官で、実際に戦場で指揮をする者ですから、高い資質を要求されます。
まずは、部下の命を無駄にしないための冷静さ。
そして、軍人として必要不可欠な勇敢さ。
この相反する2つの資質を高いレベルで持っている者でなくてはなりません。
まさに、兵士の中の兵士、ローマ軍を支える屋台骨です。
ローマの立場から見ると素晴らしいことばかりの百人隊長ですが、ユダヤ人から見るとちょっと違ってきます。
まずローマ人である彼らは異邦人です。ユダヤ人は「神の民」を自認していますから、異邦人を軽蔑しています。
また、ローマはユダヤを征服している国です。
そのため、ローマ人はユダヤ人にとって憎き征服者なのです。
その征服した軍隊の実質的な指揮官が百人隊長なのです。
そういう訳で、百人隊長はユダヤ人にとっては軽蔑と憎悪の対象だったのです。
ところで、この百人隊長には特筆すべき事柄が2つありました。
その1つ目は「愛せない者を愛した」ということです。
私たちは愛すべき者を愛することは比較的簡単にできます。
なぜなら本能的に愛してしまうからです。
愛の感情がわきあがってくるからです。
親は子を愛し、子は親を愛し、男は女を愛し、妻は夫を愛します。
しかし、愛せない者を愛するのは難しいことです。
それには「意志」が必要です。
本能の愛とは違うのです。
愛せない感情をコントロールし、愛せない者を愛するのには意志が必要なのです。
彼はしもべを愛しました。
当時のしもべは消耗品です。
使えなくなったしもべは捨てるべき者だったのです。
モノがあふれている現代社会で、壊れた機械を修理せずに新しい機械を買い換えるように。
しかし彼はしもべの命を救うために尽力しました。
また、彼はユダヤ人を愛しました。
彼を異邦人として軽蔑し、征服者として憎悪するユダヤ人を愛し、会堂まで建てたのです。
彼は見えないものであるはずの「愛」をユダヤ人にもわかるように示したのです。
そして、彼はイエスさまを愛しました。
異邦人としての自分の立場を考え、ユダヤ人としてのイエスさまの立場を配慮し、尊重したのです。
愛せない者がいる生活は、喜びを消し去ります。
なぜなら、愛せないでいる自分を裁いてしまうからです。
愛せない自分を赦せないからです。
また、そこから逃げるために、甘やかしたり、放置したりすることもあります。
消極的な愛の表現といえるかも知れません。
しかしそれは本当にその人のことを愛することにはなりません。
愛するからこそ、あえて苦言を言うこともあるでしょう。
愛するからこそ、一時的に対立しても意見を言うべきときもあるのです。
百人隊長は、消極的な愛の表現ではなく、積極的な愛の表現をしました。
あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。(ルカ6:27)
まさに彼の御言葉です。
もう1つの事柄は「イエスさまの権威を認めた」ということです。
言い換えれば、「自分が持っている権威を手放した」ということです。
彼は百人隊長としてローマ帝国の権威の下にある者でした。
しかも、100人の兵士の命にかかわる権威を持つ者でもありました。
イエスさまのことを聞いた時に、自分に与えられた権威の体験を通して、イエスさまの持っている権威の大きさに気がついたのです。
イエスさまがいのちの権威を持っていることに気がついたのです。
それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。(ヨハ17: 2)
「愛せない者を愛した」そして「イエスさまの権威を認めた」百人隊長に、イエスさまは最大級の賛辞を送っています。
「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」
聖書の中で、イエスさまが驚いたのはこの箇所だけです。
それほど、愛せない者を愛すること・イエスさまの権威を認めることは大切なことなのです。
これが『喜びあふれる生活の鍵』です。
しかし、もともと罪人である私たちには、愛せない者を愛すること・イエスさまの権威を認めることは至難のわざです。
あえて一言で言うならば「無理」です。
自分の力ではできません。
こんな私たちにはイエスさまの十字架がすべてです。
イエスさまの十字架上の言葉は、私たちにその力を与えてくれます。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)
イエスさまは御自分を十字架につけた者たちのために祈っています。
愛せない者を赦し、愛せない者を愛する十字架のイエスさまです。
私たちは愛せません。
しかし、イエスさまの十字架が自分のための十字架だと信じる時、イエスさまと共に十字架につく時、愛せない者を愛するイエスさまの言葉は私たちの言葉となります。
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)
「完了した。」(ヨハネ19:30)
永遠のいのちへの救い、贖いの完了の宣言です。
イエスさまは永遠のいのちを与える権威を宣言しました。
イエスさまの十字架は私たちの罪のためです。
私たちの弱さのためです。
あなたが自分の罪・弱さを認めるならば、私たちはイエスさまの権威を認められます。
愛せない者を愛し、イエスさまの権威を認めるとき、百人隊長のしもべに起きた奇蹟は、今、私たちの生活にも起こります。
罪や弱さや悲しみの中で死にかけていた喜びが生き返るのです。
喜びがあふれるのです。
イエスさまと共に十字架について、勝利を得ましょう!
愛せない者がいます。
自分の手に握って放せない権威があります。
そして生活の喜びが今にも死んでしまいそうです。
もしそうなら、することは1つです。
愛せない思い・放せない権威をイエスさまの十字架につけてしまいましょう。
喜びあふれる生活が、そこから始まります。
あなたのためにお祈りしています。
|