シリーズ イエス様と話そう 14
『いちじくの木』 マタイ 21:18-22
いちじくの木は、ユダヤ地方ではぶどうと共にとても愛された木、神様の祝福の象徴であった木です。
今回、イエスさまはそのいちじくの木に話しかけています。
表面だけで読むと、空腹のイエスさまが腹立ちまぎれに、実をつけていないいちじくの木を呪ったように見えます。
しかし、もちろん罪のないイエスさまがそんなやけを起こすはずがありません。
この箇所を一緒に読み解いていきましょう。
ユダヤの地方のいちじくは、葉よりも先に花が咲き、実を結び始めるのだそうです。
という事は、葉が茂っているいちじくの木には、実がなっているはずなのです。
しかし、このいちじくの木には、実がなっていませんでした。
また、同じ箇所を書いたマルコ11章には「時期でなかった」とあります。
すると、このいちじくの木は、季節を間違えて葉を茂らせていた、狂っていたということにもなります。
このいちじくが何を表しているのかを考えるには、この箇所の前に書かれている「宮きよめ」(12節〜16節)がヒントになります。
葉ばかり茂って実りのないいちじくの木は、「救い主を受け入れないユダヤの宗教指導者」と「形式ばかりにとらわれているユダヤの民の信仰」を表しているのです。
ユダヤの宗教指導者たちは、旧約聖書に精通していました。
神様が救い主を送ってくださることを熟知していました。
救い主がユダヤに来てくれることを待ち望んでいました。
しかし、実際救い主としてイエスさまが来られると、彼らは拒否しました。
私の長男の晴は今4歳です。
日本からアニメ映画のビデオが送られてくると喜んで見ます。
にぎやかな場面は集中してみているのですが、回想シーンなどの静かで動きの少ない場面になると「これラピートだよ」などと言い出します。
何をしているのかというと、自分の好きな電車の本を開いてそれを読み始めているのです。
自分が見ているのが面倒なシーン、受け入れるのが面倒なシーンには拒否反応を示すのです。
ユダヤの宗教指導者のとった態度はまさにこれに当てはまります。
イエスさまを受け入れるのが自分たちにとって不都合だったので拒否反応を示したのです。
まさに日本でベストセラーになった「バカの壁」そのものです。
神様は神の民であるユダヤ人に、「心からの礼拝」を求めました。
しかし、イエスさまの時代に、彼らは信仰者としての体裁を繕うことに心を配り、神様の前に心から礼拝することを忘れがちでした。
献金の形式、祈りの形式、その他の様々な形式に縛られて、心からの礼拝をできずにいたのです。
私の大学時代の友人に久松健一という男がいます。
彼は遊園地で1年生のころからアルバイトをしていました。
彼の役割は始め「リス」でした。
リスのぬいぐるみを着て場内の子どもたちと遊ぶのです。
リス、ウサギなどを経験し、1年たつと、彼は「じゃんけんマン」になりました。
これは、ぬいぐるみのアルバイトのうちの1人にしか許されない特別な役目です。
じゃんけんマンの下半身はパンダのぬいぐるみです。
そして上半身は人間なのです。
リスやウサギは顔もかぶりますから中でどんな苦しい顔をしていてもいいわけです。
子どもに対して「コノヤローッ」と思ってもリスは笑顔のままなのです。
しかし、じゃんけんマンはそうはいきません。
お客さんである子どもたちに向かって、いつも笑顔のできる者だけがなれるのです。
中身が要求されるわけです。
ユダヤの民は中身を忘れていました。
このような葉ばかり茂ったいちじくの木つまり、ユダヤの宗教指導者や民に対して、イエスさまは悔い改めを要求します。
彼らの信仰にチャレンジしたのです。
「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」(19節)
狂ったままの信仰の実をならさないで、神様に立ち返れということです。
しかし、いちじくの木はたちまち枯れてしまいました。
まるでユダヤの宗教家や民がいのちの源であるイエスさまを拒否し、信仰的に死んでいったように。
そしてイエスさまのこのチャレンジは現代の私たちへのチャレンジでもあるのです。
私たちの中の葉ばかり茂ったいちじくの木へのチャレンジです。
「どうせ私なんかダメさ」というイエスさまの救い、祝福に限界をつけてしまう壁。
「他人にどう見られるか」という体裁を気にした信仰生活。
などなど・・・考えてみると、2000年前のユダヤの民と、あまり変わらないような気がしませんか?
ミケランジェロは「私は、木の中にすでにある物をただ掘り出すだけだ」と言いました。
もしミケランジェロが私たちを彫ったなら、はたして何が出てくるでしょうか。
そんな私たちに「そんな葉ばかり茂らせないで、いい実をならしなさい」とイエスさまはチャレンジするのです。
チャレンジを乗り越えるエネルギー源はどこにあるでしょうか。
ルカ13章6節〜9節を読んでみましょう。いちじくの木のたとえがあります。
ここでぶどう園の主人は神様です。
番人はイエスさまです。
いちじくというのは小枝からの挿し木でも3年たてば実をつけるといいます。
しかしこの木は3年たっても何の実もならしませんでした。
普通に考えればダメな木です。
狂った木、価値のない木です。
しかしイエスさまは神様に、もう一度のチャンスを与えてくださいとお願いしてくださるのです。
私たちはよく「ワンチャンスをものにする」とか「チャンスは二度ない」とか言いますが、イエスさまは「ワンチャンス」ではなく「ワンモアチャンス」と言うのです。
そして「木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。」(8節)と言われます。
この肥やしは、もちろん液体肥料です。
そうです。イエスさまの十字架の血潮です。
イエスさまの十字架の血潮を肥料として与えられるならば、そしてそれを吸収するならば、葉ばかり茂った狂ったいちじくの木も、豊かな実を実らせるのです。
イエスさまの血潮を受けましょう。
血潮に満たされ、心の中にある「バカの壁」や「常識」や「形式」や「体裁」を流してしまいましょう。
それは宗教的儀式や形式ではありません。
心を開いて、あなたの祝福のため、救いのために流されたイエスさまの十字架の血潮を受け取ってください。
そうすればあなたは、実りあるクリスチャン、神の子とされるクリスチャンです。
「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(22節)
全能の神の子だけの特権です。
何でも与えられるのです。
いや、何よりよい物、最高の物が与えられるのです。
それは永遠のいのち、永遠の喜び、神様の無限の愛の約束です。
あなたに約束された実りがあります。
何よりも最高の実りが、あなたのために用意されています。
それは、神様の祝福の実、愛の実、いのちの実です。
それを実らす木は、あなたです。
イエスさまは血潮をもって、命を捧げ、あなたの実りを支えます。
さあ、受けてください。十字架の血潮の肥料を。
豊かな実りがあなたに約束されています。
あなたのためにお祈りしています。
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