15   ニコデモ(話そう15 2004.08.14)
シリーズ イエス様と話そう 15
『ニコデモ』 ヨハネ 3:1-15
 
今週の聖書箇所は、ニコデモです。
彼はイエスさまを友好的に訪問するにはあまりにも意外な人物です。
この訪問は「驚くべき訪問」なのです。
驚くべき理由は、彼のプロフィールです。
 
彼はまずパリサイ人でした。
神様の律法及びそれに付随する人間が決めた法律を守ることに生涯を捧げ、自分や他人の行動を厳しくチェックしていた人たちです。
簡単に言うと、規則にがんじがらめになっていた人。
心よりも行いや体裁だけを重視した人です。
彼らはイエスさまの説く「愛」「赦し」「憐れみ」に反発し、形よりも心を重視したイエスさまを憎んでいました。
 
彼はまたユダヤ人の指導者でした。
このことはユダヤの最高議会(サンヘドリン)の議員であることを示します。
全ユダヤ人の中から70名だけ選ばれた政治・宗教の最高府です。
当時のサンヘドリンは、イエスさまに対して違法(異端)の烙印を押し、イエスさまを憎んでいました。
また彼はかなり裕福な人物でした。
イエスさまの死後に没薬を贈った事からそれが推測できます。
この世の富よりも天の宝を説いたイエスさまには、多くの金持ちは理解を示しませんでした。
 
ニコデモは夜に訪問しています。
昼間イエスさまは多くの群衆に囲まれています。
彼の立場では、昼間に堂々と人目を気にせずに来る事はできなかったのでしょう。
しかし、何にしても彼はイエスさまを訪問しました。
ありったけの勇気をふりしぼってイエスさまを訪問したのです。
このことは彼の訪問の動機の大きさを表しています。
彼の訪問の動機、それは魂の渇きです。永遠のいのちへの憧れです。
 
ニコデモとイエスさまの会話が始まります。
彼はイエスさまに質問します。
イエスさまは答えます。
しかし、この会話は極端に言えば無意味です。
なぜなら、はじめからニコデモは答えを知っているのです。
彼はパリサイ人です。彼はユダヤ人の指導者で教師です。
つまり、旧約聖書のプロフェッショナル、エキスパートなのです。
旧約聖書にはこのことの答えがいっぱい書いてあるからです。
彼が知らないはずがありません。
例えば、旧約聖書のエゼキエル書36章25〜27節にはこう書いてあります。
わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。
わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。
わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。
 
このときの主権者は神様です。
神様主導で、きよめられ、新しい心が与えられ、新しく造り変えられる。
はっきりと書いてあるのです。
罪だらけの人間の、不完全な行いが条件だとは書いていないのです。
神様のおきてと定めに従わない心が石の心で、従うのが肉の心。
神様が新しい霊を与えてくださるので、人間は神様のおきてと定めに従って歩むようになる。
これは神様との交わりが回復されている姿です。
まさにニコデモが求めている答えなのです。
 
ではなぜ、彼は答えを知っているのにわざわざ訪問してきたのでしょう。
彼は知ってはいましたが、それを事実と信じてなかったのです。
「知っていること」と「信じること」のギャップです。
 
私は塾をしていて生徒に勉強を教えているのですが、時々決して成績が伸びない生徒に遭遇することがあります。
それはどういう生徒かというと「自分の成績が伸びるはずがない」と固く信じている生徒です。
どんな人に習っても、どんな勉強方法をしても、俺は無理! このように信じている生徒には何をしても無意味です。
まずその心を解きほぐさなくてはなりません。
 
ニコデモや生徒だけではありません。
私もかつてはそうでした。
私はクリスチャンになって数ヶ月で日曜学校の先生になりました。
生徒に対しては「君たちは神様に愛されている。信じるならば必ず永遠のいのちが与えられる。」と毎週メッセージしていました。
しかし心の底で「確かに彼らは救われて永遠のいのちが与えられるだろう。しかし、罪に汚れている僕はダメかもしれない、いや、ダメに違いない。」と思っていたのです。
自分の持っている知識が事実にふたをしてしまい、常識が目隠しをしてしまい、結局、何もわからなくなってしまうのです。
カントはこうに言いました。
「私は信仰に場所を空けるために知識を制限した。」
 
イエスさまは荒野での蛇の話しをしました。
ニコデモもよく知っている話です。
モーセが導いてエジプトを出たイスラエルの民は、不信仰に陥ります。
そのとき、神様が猛毒の燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死にました。
神様はモーセに命じて青銅の蛇を作らせました。
そして「旗ざおにつるした青銅の蛇を見上げれば、かまれた者は生きる。」と命じられたのです。
医学的にも、化学的にも、常識的にもありえません。
しかし、神様を信じて仰ぎ見た者は、確かに生きたのです。
知識は事実を隠すことがあります。
そして、信仰は事実を明らかにします。
 
そしてそれと同じように、イエスさまが上げられるのを仰ぎ見るならば、永遠のいのちが与えられるとイエスさまは言いました。
イエスさまが上げられるというのは、2つの意味があります。
1つは、十字架に上げられることです。
もう1つは、十字架で死んだイエスさまが3日目によみがえられれ、その40日の後、天に上げられること(昇天)です。
十字架のイエスさまを仰ぎ見るならば、私たちはその血潮を浴びます。
前述のエゼキエル書のように、きよい水で洗われるのです。
私たちのすべての罪はきれいさっぱり洗い流されます。
昇天のイエスさまを仰ぎ見るならば、私たちはその永遠のいのち、罪に打ち勝った勝利のいのち、栄光のいのちを受けます。
エゼキエル書にある新しい霊を受け、私たちは神様の子とされるのです。
 
ニコデモはその後どうなったでしょう。
サンヘドリンでの彼の行動がヨハネ第7章にあります。
彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。
「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」(ヨハネ7:50-51)
 
彼は正義のため議会に抗議する勇敢な人物になっていました。
人目を気にして、夜にそっとイエスさまを訪問したニコデモと同一人物とは思えません。
そう、新しいいのちは力あるいのちなのです。
躍動するいのちなのです。
そして、神様はこの命をすべての人に与えようと望んでおられます。
それは、私たちを愛するがゆえです。
 
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
 
あなたは、神様に選ばれた人です。
永遠のいのちを受けるため選ばれた人です。
永遠の愛の対象として選ばれた人です。
あなたは神様の宝物なのです。
あなたの知識や経験がそれを否定するなら、知識や経験が間違えています。
イエスさまの十字架の血潮はあなたを洗い、聖霊様があなたと共に住みます。
事実は、ひとつです。
 
あなたのためにお祈りしています。



| 前週へ | 年間目次 | 次週へ |


ホーム 集会案内 伝道師紹介 Message 2008 御言葉の旅 歴史(年表) リンク集 Message 2007 Message 2006 Message 2005
Message 2004


gospelhouse@church.ne.jpメールはこちらまで。