シリーズ イエス様と話そう 16
『大祭司のしもべ・マルコス』 ルカ 22:49-51
今週の聖書箇所は、新約聖書の福音書の中で最も緊張した場面の1つです。
イエスさまが十字架にかかる前夜、最後の晩餐を終え、ゲッセマネでの必死の祈りを終えた後の出来事。
イエスさまの逮捕です。
この箇所をより立体的に読むために、マタイ第26章、マルコ第14章、ヨハネ第18章もあわせて読んでいただくことをおすすめします。
この場面の登場人物を見ていきましょう。
まずユダがいます。
十二弟子の一人でありながらイエスさまを裏切り、祭司長たちと手を組みました。
そして、今、こうしてイエスさまを逮捕するための先導をしています。
彼は最高の愛情表現であるはずの口づけを合図にイエスさまを役人に渡します。
彼については、別の機会にあらためてメッセージをしたいと思っています。
イエスさまの弟子たちがいます。
彼らはこの最高潮に緊張した場面に際して、明らかに動揺しています。
イエスさまと共にいる安心感は感じられません。
恐れによって神様・イエスさまの力を一時的に忘れてしまっているのです。
そのうちの1人は、剣で大祭司のしもべの耳を切り落としてしまいます。
神様の力でなく、自分の力・剣の力で何とかしようとしているのです。
こんなおっちょこちょいで直情的な弟子は、もちろんペテロです。(ヨハネ18:10参照)
耳を切られた大祭司のしもべがいます。
彼の名はマルコスです。(ヨハネ18:10参照)
イエスさまはこれまでに、御言葉をお語りになる前後に何度もこう言われました。
「聞く耳のある者は聞きなさい。」(マタイ11:15,13:9,43、マルコ4:9など)
大祭司は、当時のユダヤ教の最高の宗教的知識を持っていましたが、残念ながらイエスさまの言葉を信じることができませんでした。
彼らはイエスさまの福音を拒否する者、つまり「聞く耳を持たない者」だったのです。
そのしもべであるマルコスは、大祭司の権威によって耳をふさがれている者と言えるのではないでしょうか。
彼らはイエスさまの話を聞いても賛同できる立場ではなかったのです。
もちろん耳は聞こえます。
でも、大祭司のしもべである以上、聞いても信じることは許されなかったのです。
そしてイエスさまがいます。
十字架の死の直前、ゲッセマネの血の汗を滴らせた祈りも終え、救い主としての覚悟も十分です。
もはや何も恐れるものはありません。
愛する者のために十字架に進みゆく輝かしい救い主の姿がそこにあります。
その姿からは力がみなぎっています。
そのエネルギーに押されて、イエスさまをとらえに来た群衆は「彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。」のです。(ヨハネ18:6)
本日はこの中で、耳を切られてしまった大祭司のしもべマルコスに焦点を当ててみたいと思います。
マルコスは大祭司の権威によって聞く耳をふさがれた者でしたが、この夜、ペテロによってその耳(右耳)を切り落とされてしまいました。
かわいそうにマルコスは、正真正銘の「聞く耳を持たない者」になってしまいました。
立場としても、状況としても、まったく御言葉を受け入れられない姿になってしまったのです。
私が算数を教えている小学校6年生の男の子がいます。
彼は歴史が大好きで、いまどき珍しく天皇大好きな少年です。
彼は初代天皇が神武天皇だと信じています。
そして、神武天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の息子であるとも信じています。
そんな彼との授業中にひょんなことから「地球のはじめ・宇宙のはじめ」の話題になりました。
地球や宇宙がどうやってできたんだろうかと考えている時に、「うーん・・・まさか神様が作ったんじゃないでしょう。」と彼は言ったのです。
彼のように天照大神の存在を信じている人でさえ、神様の創造を信じないのです。
私たちの周りにある情報、知識、立場、環境などが、私たちの「聞く耳」をふさいでいるのです。
ふさぐだけでなく、もしかしたら、もう切り落とされてしまっているのかもしれません。
私たちは自身を持って「聞く耳持ってます」と言えるでしょうか?
耳を切り落とされたマルコスにイエスさまは触れ、そして、その耳を直されました。
マルコスはイエスさまに「聞く耳」を与えられたのです。
聞く耳を与えられたマルコスは、半日後、何を聞いたでしょうか?!
聖書には書いてありません。が、彼は大祭司のしもべの1人として、きっとイエスさまの十字架を見ていたことでしょう。
そして彼はイエスさまの十字架上の言葉を聞いたのです。
それは、いのちの言葉、赦しの言葉、愛の言葉でした。
マルコスにとって、人生を変える言葉であったに違いありません。
「聞く耳のある者は聞きなさい。」
何度も何度もイエスさまは言われました。
何度も、何度も・・・。
そして、十字架にかかる前になされた最後の奇蹟・最後の癒しは「聞く耳」を与える奇蹟だったのです。
「聞く耳のある者は聞きなさい。」
それは、現代の私たちへの言葉でもあります。
さあ、私たちもイエスさまに「聞く耳」をいただきましょう
あなたの耳は、何を聞いていますか。
悲しみの言葉・憎しみの言葉・裁きの言葉ですか。
それとも、愛・赦し・喜びの言葉ですか。
イエスさまは、あなたに耳を与えます。
そして、こう言われます。
「私はあなたを愛している」
あなたのためにお祈りしています。
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