シリーズ イエス様と話そう 17  
『中風の男』 ルカ 5:17-25 
  
今週の聖書箇所は、中風の男です。 
皆さんは中風という病気がどんな病気であるか知っていますか。 
恥ずかしいことですが、私は中風というのがどんな病気か知らないでいました。 
それで、今回、国語辞典で調べてみました。 
中風…脳卒中や脳出血の発作後にあらわれる、からだが思うように動かなくなる病気。 
体の麻痺があって、自由に動けない状態です。 
さて、イエスさまがこの男に何を語るのか、共に見ていきましょう。 
  
私たちに目の前に越えなければならない事柄が与えられたとします。 
たとえば、課題や試練、何かのチャレンジなどです。 
そのときに私たちは2つの生き方を選ぶことができます。 
1つ目は、ダメな理由・不可能な理由を見つける人生です。 
「私は・・だから出来ない」とか「あれは・・の理由でダメだ」という生き方です。 
もう1つは、可能な理由・突破口を見つける人生です。 
「私は・・だけど、こうすればいい」とか「あれは・・の方法を取れば可能だ」という生き方です。 
  
2つは、全く正反対の生き方ですが、1つだけ共通点があります。 
それは「理由を見つけたら喜ぶ」ということです。 
可能な理由を見つけた方が喜ぶのは理解が出来ますね。 
それは物事を成し遂げられるという喜びです。 
しかし、不可能な理由を見つけた方も喜ぶのです。 
それは、その事柄をしなくてもよくなるからです。 
もちろん私たちは、可能な理由・突破口を見つける人生を歩みたいものです。 
  
当時のユダヤの社会の中では、病気は罪の表れと考えられていました。 
つまり、病気になるのは罪深い証拠であると考えられていたのです。 
もちろん、すべての人は罪を持っているわけなのですが、重い病気になる人は重い罪を持っていると考えられていたのです。 
  
ですから、この中風の男は罪深い者である、と、自他共に認めてざるを得なかったのです。 
しかし彼は、「私の罪が深いからしょうがない」と諦めはしませんでした。 
そして励ましてくれる友人に運ばれて、イエスさまの前に出ようとしたのです。 
彼らにとって、この行き詰った人生の突破口はイエスさまだったのです。 
しかし、彼らの前にまた試練が待ち受けます。 
どうにも人がいっぱいでイエスさまの前に行けないのです。 
健康な者ならば、人を押しのけて歩いて行くことも出来たでしょう。 
しかし彼は中風です。 
彼らの可能性は消えたかに見えましたが、彼らは屋根に突破口を見つけました。 
  
屋根をはがして、そこから直接イエスさまの前に中風の男を降ろして行ったのです。 
下にいる者にとっては迷惑千万な話です。 
多くの人がひしめき合っている部屋の天井が破れ、砂ぼこりもゴミも落ちてきます。 
そして、次には人が降ろされて来たのですから。 
私なら大声で怒ってしまうところでしょう。 
しかし、中風の男とその友人にとっては、イエスさまが唯一の突破口、天井が唯一の突破口だったのです。 
励まし、助けてくれる友人というのは、本当にありがたいものですね。 
私も、毎週、共に神様の御言葉を分かち合える友が与えられていることは、この上ない喜びです。 
  
イエスさまは、彼らの信仰を見て、「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われました。(20節) 
彼らは、イエスさまが病気を癒してくださるという信仰を持って、やって来ました。 
しかし、イエスさまは罪の赦しを宣言したのです。 
なぜならば、中風の男にとって、癒しよりももっとずっと重要なことだったからです。 
中風の男の魂の底にある要求、叫びは「世界中の誰でもいい、気休めでも構わない。私の罪を赦してくれ」だったのではないでしょうか。 
それは、自分を罪深いと責め続ける人生からの解放です。 
そして、現状の自分を受け入れる新しい人生の出発を意味するのです。 
  
律法学者・パリサイ人達はこの言葉につまずきます。 
イエスさまは彼らに質問します。 
「『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。」(23節) 
無責任に言うだけなら、『あなたの罪は赦された。』のほうが簡単です。 
目に見えないのですから、証拠がいりません。 
癒しは証拠が必要です。 
しかしこれは偽善者の行動です。 
そして律法学者たちは、イエスさまのことを偽善者と決めつけていました。 
  
責任を持って言うならどうでしょう。 
私個人の答えは、「どちらも難しい」です。 
病気の癒しには、医学や薬学、また神様からの癒しの賜物が必要です。 
しかし、私はこのうちのどれも持ち合わせていません。 
罪の赦しは、完全に罪のない聖なる方だけができる事柄です。 
罪人である私には、赦しの賜物も赦す資格もありません。 
  
イエスさまならどうでしょう。 
病気の癒しは、神様の御力で可能です。 
イエスさまは主の御力をもって、病気を直しておられた(17節)のです。 
イエスさまには、神様から癒しの力が存分に降り注がれていました。 
罪の赦しは、罪のないイエスさまが十字架にかかることで可能です。 
しかし、精神的にも、肉体的にもかなりの苦痛が伴います。 
しかし、ここでイエスさまは、中風の男に対して罪の赦しを宣言したのです。 
存分に力が注がれている癒しではなく、命がけの罪の赦しを先に宣言されたのです。 
  
そして、イエスさまは中風の男に癒しをも与えました。 
「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」(24節)です。 
彼に癒しが与えられたということは、彼が責任ある罪の赦しを受けたということです。 
確固たる証拠のある罪の赦しが与えられたということです。 
彼は、神をあがめながら自分の家に帰りました。(25節) 
罪深い自分を責め、環境や神様を恨む人生から、赦された自分を愛し、神様をあがめる人生に変わったのです! 
  
すべては無償でした。 
中風の男も友人も何も捧げてはいません。 
イエスさまは一方的に証拠をお与えになりました。 
また、一方的に赦しと癒しをお与えになりました。 
現代の私たちに与えられた一方的な証拠、それはイエスさまの十字架の愛です。 
それは確実な証拠です。 
完全なる罪の赦しの証拠です。 
全く無償の罪の赦しです。 
  
私は先程、癒しも赦しもどちらも難しいと言いました。 
あれは嘘です。 
訂正します。 
私は責任をもって宣言できます。 
『あなたの罪は赦された。』 
それは、イエスさまが無償で私にくださったからです。 
イエスさまが命がけで私にくださったからです。 
イエスさまが確実な証拠をもって私にくださったからです。 
イエスさまがすべての人に伝えるようにと与えてくださったからです。 
  
あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ10:8) 
まず、受けることです。 
そして、しっかりと受けたならば、与えることです。 
  
イエスさまの命がけの確かな赦しが、あなたの人生に臨みます。 
あなたの人生の突破口が開かれます。 
その向こうに、愛と喜びの人生があなたを待っています。 
あなたがそれを受けるなら、あなたは愛と喜びを他の人に与えることができます。 
あなたの目の前に開かれた、その確かな突破口を進みましょう。 
  
あなたのためにお祈りしています。 
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