「七度の七十倍」 マタイ 18:21-22 
  
今週の礼拝は第70回記念礼拝なので、イエスさまと話そうシリーズを1回お休みしまして、「7度の70倍」というテーマでメッセージしたいと思います。 
  
ユダヤ教のタルムードには「隣人に赦しを請願するのは3回まで」という内容が記されています。 
つまり、赦す側から見れば、3回赦せば十分ということになります。 
4回目からは、赦さなくていいということです。 
タルムードは、ユダヤの口伝律法の集大成ですから、当時のユダヤ社会でも「3回は赦すべし」ということになっていたことでしょう。 
  
ここでペテロは、「7回赦せばいいですか」と言っています。 
聖書の中では、7は典型的な完全数で、完成、成就、完結を意味します。 
また、基準の3回の2倍以上の回数ですから、一般的に言えば十分なのです。 
ペテロはきっと「イエスさま、あなたと一緒にいて私も変わりましたよ。こんなに赦せるようになったんですから。ネ、ほら、見てください、聞いてください、どうですか」といった気分だったのではないでしょうか。 
  
しかし、イエスさまの答えはペテロの期待したものではありませんでした。 
「七度まで、などとはわたしは言いません。 
七度を七十倍するまでと言います。」 
7回の70倍=490回ではありません。 
なぜなら「490回こえたら赦さない」という心で赦した回数を数え続けているならば、それは1回も赦していないことになるからです。 
7回の70倍=完全・無制限です。 
何度でも、何度でも、数えることなく、完全に無制限に赦し続けなさいというのが、イエスさまの答えだったのです。 
  
2週間前に、私はパラナ州のブラジル人教会でご奉仕しました。 
その教会では、礼拝終了後、信徒さんが帰って行くのを牧師が出口で見送ることになっていました。 
握手したり、ハグしたり、挨拶を交わしたりするのです。 
私もそこで見送る役目をいただきました。 
2ヶ月前にも来たので、子どもたちが覚えていて寄ってきます。 
その中の1人がこう言いました。 
「あのジャポネズはデウス アベンソーイしか言えない!」 
そうなんです。 
ポルトガル語がほとんどできない私は、帰る一人一人の信徒さんすべてに向かってデウス アベンソーイと言っていたのです。 
  
私は子どもたちにこう言いました。 
「そうだよ。それでいいんだ。」(通訳付) 
これは負け惜しみではありません。 
伝道者が信徒に向かっていう言葉は、デウス アベンソーイだけでいいのです。 
これまでのゴスペルハウスの70回のメッセージ、実はすべて同じ内容です。 
それは、デウス アベンソーイ、神様があなたを祝福しています。なのです。 
  
旧約聖書の民数記の22章〜24章にかけて、バラムという人物が登場します。 
彼は、モアブの王バラクに雇われ、イスラエルの民をのろうことになった占い師です。 
しかし、彼は神様の許した言葉(イスラエルに対する祝福)しか話せなかったのです。 
聖書には、こう記されています。 
神はバラムに言われた。「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ。」(民数記22:2) 
しかし、あなたの神、主はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。(申命記23:5) 
それは、彼らがパンと水をもってイスラエル人を迎えず、かえって彼らをのろうためにバラムを雇ったからである。しかし、私たちの神はそののろいを祝福に変えられた。(ネヘミヤ記13:2) 
  
神様よりもお金を第一としようとしたバラムでさえも、神様に祝福されている民を呪うことはできないのです。 
そして、神様はすべての人を祝福します。 
たとえ、その人がどんな信仰を持っていようと関係ありません。 
信仰を持っていなくても構いません。 
  
ヨナ書の巻末にはこんな記述があります。 
主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(ヨナ4:10-11) 
神様に背を向け続けたニネベの民にさえ、神様は愛情を注いでおられるのです。 
  
これまでの70回も、これからもずっと、ゴスペルハウスのメッセージは、完全・無制限に祝福と赦しのみです。 
言葉足らずでも、うまく伝わらなくても、私の口は、講壇に立ったならば、そのことしか話すことを赦されていないのです。 
それは、イエスさまが私を一方的に完全に無制限に愛し、赦し、祝福してくださったからです。 
十字架上で血潮を流し、命を捨ててまで、それを成し遂げてくださったからです。 
  
イエスさまはあなたを愛しています。 
赦しています。 
祝福しています。 
一方的に、完全に、無制限にです。 
誰もあなたを呪うことはできません。 
天の父なる神様があなたを愛しているのです。 
あなたが何を考えていても、何をしていても関係ありません。 
イエスさまの十字架は、完全・無制限の愛と赦しと祝福の契約書です。 
そう、あなたのための契約書です。 
  
あなたのためにお祈りしています。 
デウス アベンソーイ! 
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