20   ヤイロ(話そう19 2004.09.25)
シリーズ イエス様と話そう 19
『ヤイロ』 マルコ 5:22-24,35-43
 
今週は、会堂管理者のヤイロです。
会堂管理者とは、ユダヤ人の会堂の管理責任者のことです。
その仕事の内容は、会堂の維持管理をするだけでなく、聖書の朗読箇所の選定、礼拝の司会、また聖書朗読者、説教者の指名なども行いました。
また、会堂での礼拝の秩序を保つ役割もあり、責任を果すために異端者を追放することもありました。
 
イエスさまは、ユダヤの中では、放浪の説教者・伝道者です。
若く、その教えは革新的で、大衆に人気がある教師です。
癒しや悪霊追い出しなどの奇蹟も行ないます。
会堂管理者であるヤイロから見れば、異端の疑いもあり、十分に用心すべき人物として写っていたことでしょう。
 
ヤイロの娘が病気になりました。
しかし、イエスさまの奇蹟の力に頼ることは、会堂管理者としての立場上かなり困難なことです。
異端の疑いがある者に肩入れすれば、会堂管理者としての立場を失いかねないからです。
そんな彼も、娘が手の施しようもなく、死にかけていく現状を見て、イエスさまに会う事を決めます。
しかし! しかしです。
彼は来るのが遅すぎました。
彼の立場やプライドが遅らせてしまったのです。
「娘が死にかけています」(23節)という言葉や、イエスさまが家に着く前に死の知らせが届いたこと(35節)からも、彼が来るのが遅すぎたことがわかります。
 
また、彼はイエスさまの足もとにひれ伏しながらも、イエスさまを自分の思いのままに動かそうとしています。
丁寧な言い方なので気がつきにくいのですが、彼はイエスさまに「家に来て、娘に手を置いて、直せ」と言っているのです。
誰が、どこで、どういう方法で、何をする。
これを彼は決定して、イエスさまに指示しているのです。
会堂管理者としての立場を守るために、若い伝道師に対して指示しているのです。
このようにしておけば、後で非難された時にも、「私はあの者の仲間ではなく、ただ命令してやらせただけであり、癒しが行なわれた時の主体者は私である」と弁明できます。
 
また、家族・親類も同様でした。
会堂管理者としての立場を失うかもしれない危険を背負ってヤイロがイエスさまのもとに行った時、きっと彼らは反対したことでしょう。
少なくとも大喜びで希望を持って送り出したのではないと思われます。
娘の死を知らせに来るのが早すぎます。
そして、イエスさまが家に来る必要がないと伝えているのです。
少し極端に言えば「イエスを家に入れるな」という意味です。
彼らは、娘の死を目の当たりにしても、会堂管理者としての立場・プライドを守ることに執着しているのです。
 
イエスさまは神の国に入る者の基準を次のように話されました。
子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。(マルコ10:15)
 
私は食事中などに、はれる(4歳・長男)に「目つぶって、口あいて!」と言うことがよくあります。
はじめは、目を閉じると口も一緒に閉じたり、口を開けると目を一緒に開けたりしてうまく出来ませんでしたが、今は慣れたものです。
喜んで彼は目をつぶって口をあきます。
なぜなら、美味しい物が口に運んでこられることを知っているからです。
チョコレートであったり、フルーツであったり、アメであったり・・・彼は、決して疑って薄目を開けることも、口をつぐむこともありません。
 
ヤイロはまさにこの反対の状況でした。
イエスさまの足もとでひれ伏していながら、イエスさまを支配しようとしているのです。
会堂管理者という立場が、プライドが、彼を「目つぶって、口あいて」の状況に置かなかったのです。
ヤイロは、25節から34節の間の長血の女の癒しのときに、どれほどイライラしたことでしょう。
 
そうこうしているうちに、娘の死の知らせが届きました。
ヤイロの希望は消え去りました。
少なくとも彼には消え去ったように見えました。
彼の前にあるのは、ひとり娘の死という絶望だけです。
 
しかし、イエスさまは言いました。
「恐れないで、ただ信じていなさい。」(36節)
希望は失望に終わらない!
これが、キリスト教の信仰です。
そして、キリスト者の真実です。
イエスさまは主体的にヤイロの家に向かわれました。ヤイロの命令とは関係なく。
パウロはこう書きました。(ローマ5:5)
この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
 
イエスさまは家につくと、「娘は死んでいない」と宣言します。
すると、人々はイエスをあざ笑った。(40節)のです。
「そんなこと信じてると、今にきっとひどい目に遭うさ」と思っている人にとって、信じる者は愚か者です。
あざ笑う対象ですらあります。
人にだまされない方法があります。
それは、すべての人を疑うことです。
疑り続ける人は、信じることがないので、だまされることもありません。
しかし、その人たちは奇蹟に出会うこともありません。
 
私は中学生時代、サッカー部でしたが、先生にこんなことを言われました。
「PK(ペナルティーキック)を絶対にはずさない方法がある」
私たちはどんな方法か知りたいと思い耳を澄ましました。
「それは簡単、自分でPKを蹴らずに、だれか他の人に譲れ」
私たちがそれは嫌だと言うと、
「だったら、はずす事を恐れずに蹴れ」と先生は答えました。
 
イエスさまは部屋に入り、娘の手を取り、「タリタ、クミ。」と言われました。
「タリタ」の原意は、子羊を意味するヘブル語ターレから出て、子供を指す親愛の情を表すことばであった。(聖書辞典)
この言葉は、もちろん娘に語られた言葉ではありますが、同時に、ヤイロとその妻の心にも深く刻まれました。
「タリタ」「親愛なる者よ」
ヤイロ夫妻の宝物であるひとり娘に語られたその言葉は、命の生き返りの奇蹟をおこしました。
また、彼ら夫妻の心の中で、喜びの奇蹟をおこしました。
 
その後のヤイロについて、聖書には書いてありません。
しかし、きっと彼はイエスさまを信じたことでしょう。
もしかすると、そのことが原因で会堂管理者としての立場を失ったかもしれません。
しかし、彼の人生は、喜び満ちるものに変えられました。
何物にも代えられない、素晴らしい宝物の人生です。
 
あなたの生活におこる試練は、失望に終わることがありません。
神様が、あなたを愛しているからです。
試練を通して、あなたは神様の愛に出会います。
試練の中で、喜びの奇蹟が起こります。
必要なのは、恐れないで、ただ信じることです。
子どものように、目つぶって口あいて、信頼することです。
あなたは、神様の愛する子どもなのだから。
 
あなたのためにお祈りしています。



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