21   長血の女(話そう20 2004.10.02)
シリーズ イエス様と話そう 20
『長血の女』 マルコ 5:25-34
 
今週の聖書箇所は、『長血の女』です。
先週の聖書箇所の途中にあたります。
会堂管理者のヤイロがイエスさまのところへ来て、イエス様たちがヤイロの娘のためにヤイロの家に向かっている途中での出来事です。
 
長血とは、長期間の出血を伴う婦人病で、現代の病名のどれだと限定することはできません。
律法では、長血の者は汚れた者とされていて、他の人に触れると触れた人までが汚れた者とされていました。
 
そして、この女性は、その病気を克服するために大変な努力をしてきました。
2000年も前のことですので、医学も現代ほど発達していません。
ですから、治療法も医学的なものだけでなく、迷信的なものも多かったことでしょう。
彼女は、「いい医者がいる」と聞けば出かけ、「いい薬がある」と聞けば試し、「いいまじない師がいる」と聞けばそれに期待しました。
また、迷信的な治療法も試しました。
「ダチョウの卵の灰を袋に入れて持ち歩けば直る」とか「雌ロバの糞の中に見つけた大麦1粒を持ち歩くと直る」といったものまであったそうです。
 
彼女は治療のたびに「今度こそ直るに違いない」と思っていたことでしょう。
しかし、彼女の期待は毎回裏切られます。
彼女の100%の期待は、何回も何回も裏切られ続けるのです。
そして、ついには財産を使い果たしてしまいました。
しかし、何の効果もないばかりか、かえって悪くなっていたのです。
 
そんな時彼女は、イエスさまの噂を聞きます。
彼女は期待したことでしょう。
しかし、彼女は律法によれば「汚れた者」です。
イエスさまの前に堂々と出て行くことが許されている者ではないのです。
そこで彼女は迷信を作り出します。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」(28節)
彼女のイエスさまへの期待は、かなり迷信じみたものになってしまいました。
聖書の記述によれば、イエスさまの着物に触れた者が癒されたなどということは、これまでにおこっていないのです。
彼女は勝手に迷信を作り出し、それを勝手に信じ込んでいたのです。
これでは、「ダチョウの卵」や「雌ロバの糞」と一緒です。
 
しかし、たった一つだけ、今までと違っていることがありました。
それは、彼女の視線がイエスさまに向いているということです。
他の何でもなく、イエスさまに向いているということです。
そして、それが決定的な違いでした。彼女は直ったのです。
 
皆さんは初めて聖書を読んだ動機は何でしたか?
私は、絶望の末にハワイへ行き、そこで初めて聖書を読みました。
しかし、聖書の内容に期待したのではなく、「日本語の活字が読みたい」というだけの理由です。
無料の日本語の観光案内書を読みつくし、ホテルの机の引き出しに入っていた聖書を何となく読んだのでした。
 
また、初めて教会の礼拝に行かれた動機は何ですか?
恥ずかしながら、私は、「食べ物につられて」です。
ハワイにいた時、「牧師の家で夕食会があるから来ないか」と誘われました。
友人もない私は、夕食がもらえるならと喜んで行きました。
帰り際に「土曜日に宣教師を送るパーティーが教会であるから来ないか」と誘われました。
もちろん食べ物があるならと喜んで行きました。
その帰り際、「あした礼拝があるから来ないか」と誘われ、「きっと食べ物がある」と思って喜んで礼拝に行ったのでした。
 
私は初めて聖書を読んだときの動機も、教会に行った動機も、やや不純です。
「聖い」という言葉からは、かなりかけ離れています。
しかし、神様はそんな私を救ってくださいました。
神様は「動機が不純だから救いもちょっとだけ」とは言わないのです。
そればかりか、神様の愛を伝えるために、ブラジルという大国にまで送ってくださったのです。
大切なのは、どんな動機ということよりも、イエスさまの前に出たということなのです。
人間の側の状況ではなくて、神様の前に出た、救い主イエスさまの前に出たということなのです。
 
ただこの一点において、彼女は正しかったのです。
イエスさまは彼女に「あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われましたが、それは、ただこの一点が正しかったということなのです。
 
この出来事をイエスさまの側から見てみましょう。
彼女の病気が直ったとき、イエスさまは、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づきました。
ここに、救い主・贖い主としてのイエスさまの姿があるのです。
イエスさまは、あり余る力のうちの一部を私たちにくださるのではなく、ご自身の力を私たちに注いでくださっているのです。
ご自分を犠牲にして私たちに癒しや救いや奇蹟をおこしてくださっているのです。
イエスさまの命、イエスさまの力を惜しみなく注いでくださる方なのです。
イエスさまは、命をかけて私たちのために神の国の扉を開いてくださる方なのです。
 
イエスさまは、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」とさがされます。
弟子たちは、イエスさまが救い主だということは理解していました。
しかし、ローマの征服からの自由を与えてくれる救い主と考えていました。
奇蹟の力で、ローマを蹴散らし、ユダヤを自由にする救い主として考えていたのです。
彼らは、ご自身の命を犠牲にする救い主という理解はしていませんでした。
なので、誰がさわったかという事を重要なこととは考えていませんでした。
しかし、イエスさまにとって、それは重要なことなのです。
同じ出来事を記したルカによる福音書ではイエスさまはこう言っています。
「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから。」(ルカ8:46)
 
不純な動機でも、足りない信仰でも構わないのです。
イエスさまの救いを求める者には、イエスさまは惜しみなく力を注いでくださるのです。
命がけで救ってくださるのです。
そして、その人が誰でも構わないのではなく、イエスさまはその人と出会い、きちんと愛を注ぎたいと願っておられるのです。
 
このイエスさまの基準を知るならば、私たちはもう裁く必要がありません。
自分の信仰も裁かなくていいのです。
他の人の信仰も裁かなくていいのです。
ただ一点、イエスさまの方を向いているかどうか、その姿勢を点検するだけでいいのです。
私たちは方向を決める(直す)だけでいいのです。
信仰はイエスさまが完成してくださるからです。
真理はイエスさまが示してくださるからです。
 
あなたが、イエスさまのことをすべて知っていなくても構いません。
あなたが、他人に誇れるような立派な信仰を持っていなくても構いません。
不純な動機であってもいいのです。
あなたはそのままで、イエスさまの前に出ていいのです。
イエスさまは、そのあなたを受け止めてくださいます。
イエスさまは力を尽くして、命を尽くして、あなたを愛してくださいます。
 
あなたのためにお祈りしています。



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