22   種まきのたとえ(たとえ01 2004.10.16)
シリーズ イエスさまのたとえばなし 01
『種まきのたとえ』 マルコ 4:2-20
 
今週から新しいシリーズが始まりました。
「イエスさまのたとえばなし」です。
これまで続けてきた「イエス様と話そう」のシリーズも引き続きしますので、2つのシリーズが並行することになります。
より立体的にイエス様の愛をお伝えできたらと思っております。
 
イエスさまは様々なたとえばなしをされました。
たとえで話す意味は、神の国という私たちにとって抽象的な内容を、身近な事柄でたとえることで、より理解できるようにすることです。
もちろん、特定の人たちに対して隠すという目的もありますが、第一の目的は抽象的な内容を具体化してわかりやすくすることです。
 
これからたとえばなしをシリーズとして、皆さんとご一緒に理解していく中で、心がけていただきたい事柄が2つあります。
1つ目は、たとえばなしは話されたということです。
書かれて聴衆に配られたのではなく、イエスさまが一度きり話して聞かせたことなのです。
なので、たとえばなしは多くのポイントを含むものではありません。
何か大切な1つの事柄についてたとえでわかりやすく話したということなのです。
なので、たとえばなしに登場する人物や動物や物について一つ一つ何を表しているのかを詮索し過ぎると、本来の大切なポイントがぼやけてしまいます。
書かれた物ならばそういった研究も有用でしょうが、たとえばなしは話されたものなのです。
 
2つ目は、たとえばなしを語ったのが誰であるかということをいつも覚えておくことです。
イエスさまのたとえばなしですので、当然、語ったのはイエスさまです。
イエスさまは、救い主です。
十字架上でいのちをかけて私たちを救ってくださった方です。
天の神様の愛の具体的な表れです。
聖書には次のようにあります。
 
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16-17)
注:御子とはイエスさまのことです。
 
わたしは光として世に来ました。
わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。
だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。
わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。
(ヨハネ12:46-47)
注:わたしとはイエスさまのことです。
 
このような目的を持って来られたイエスさまの語ったたとえばなしです。
ですから、「イエスさまのたとえの意味は、イエスさまが罪人の救い主としてこの世に来たのだから、人々は罪を悔い改めて彼を信じる決断をすべきであるという点にある。」という考え方を持って、読み進めていく必要があります。
 
さて、では今週のたとえばなしです。
有名なたとえばなしなので、今までこの聖書箇所からメッセージを受けた方も多いと思います。
『あなたの心は「道端」ですか?「岩地」ですか? 「いばらの地」ですか?それとも「よい土地」ですか?
あなたの心がよい土地ならば、御言葉は百倍もの実を結びますよ。さあ、皆さん、心を入れかえて「よい土地」になりましょう。』
イエスさまもそのように解説していると読むこともできます。(15節-20節)
 
このようなメッセージを僕も聞いてきました。
まさに、人間の心構えの大切さを強調するものです。
もしも、釈迦や孔子やマホメットのような聖人と言われる人々がこのたとえばなしを語ったのならそれでいいでしょう。
しかし、そうではないのです。
救い主イエスさまが語ったのです。
道徳物語にしてしまってはいけません。
人間の心構えが大切であるというたとえではないのです。
「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく」が、イエスさまの本分です。
心構えがいいから救われるのではなく、御子を信じるから救われるのです。
 
ではこの解説は何でしょうか?
聖書学者には、「この解説はイエスさまが語ったものではなく、あとで付け加えられたものである。」という考え方があるそうです。
僕はそれに賛成も反対もしません。しかし、このたとえが十二弟子をはじめとするイエスさまに従った人たちだけに語られたことは重要であると思うのです。
 
つまり、イエスさまの解説部分は、弟子たち、つまり御言葉を蒔く者たちに語られたものということです。
「御言葉を受け入れる者もいればそうでない者もいるが、受け入れた者は大きな実を結ぶから、御言葉を蒔き続けなさい」というイエスさまから彼らへの励ましが語られているのです。
 
そして、聴衆に対してのポイントは、1つです。
それは、「御言葉にはいのちがある。蒔かれた場所ではなく、いのちのあるのは種。その土地が種を受け入れたら、百倍にも大きな実を結ぶ。」です。
 
土地はいくらよく耕されたとしても、種がなければいのちをスタートすることができません。
この箇所は、いのちである種、いのちの御言葉を受け入れることの大切さを伝えているのです。
道徳物語でも努力物語でもなく、信仰を求めているたとえばなしなのです。
たとえの最初の部分と結論である最後の部分を読めば、それは一層はっきりします。
 
よい土地が種を受け入れたからいのちが与えられるということではありません。
種を受け入れたからいのちが与えられるのです。
そして、いのちのある土地こそが、本当のよい土地なのです。
このたとえばなしは、いのちの御言葉を受け入れ、いのちあふれる者になりなさいというイエスさまの招きなのです。
 
御言葉はいのちの種のです。
御言葉は愛の種です。
あなたが御言葉を受け入れるなら、あなたはいのちと愛を受けます。
そのいのちと愛は、百倍にも大きな実を結びます。
あなたはいのちと愛のあふれた者になります。
そう、一粒の種を受けただけで。  
         
あなたのためにお祈りしています。



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