シリーズ イエスさまのたとえばなし 02 
『毒麦のたとえ』 マタイ 13:24-30、36-43 
  
今週の聖書箇所は「毒麦のたとえ」です。 
先週お話した通り、イエスさまのたとえばなしには大きなポイントが1つあります。 
ではこのたとえのポイントは何でしょうか?  
それは「この世の終わりには裁きがある」です。 
  
旧約時代には、罪のための捧げものとして動物(牛・ヤギ・羊など)が殺されました。 
(レビ記にはその詳細が書かれています) 
捧げる人は、その動物のいのち(血)によって贖われ、罪を赦されました。 
捧げるときに殺される動物に対して、同情することはありません。 
情け容赦なく殺されます。罪の贖いのためです。 
  
このたとえばなしでは、今度(この世の終わり)には、自分自身が裁かれるよ、と伝えているのです。 
情け容赦なく、罪のための裁きがあなたに下ると言っているのです。 
当時の人々には衝撃的な内容だったことでしょう。 
  
しかし、このたとえばなしをイエスさまが語っているという事実を見逃してはなりません。 
道徳家でもなく、律法学者でもなく、救い主・イエスさまが語るとき、このたとえばなしの本質が見えてきます。 
  
私には息子が二人ますが、妻に内緒で彼らを抱きかかえて祈ることがよくあります。 
今日こうしてメッセージで言ってしまうので、もう内緒にはなりませんが・・・。 
それは「この子にこれから起こる不幸な出来事、病気、苦しみ、痛みをすべて彼から取り除いて、それらをすべて私に乗せて下さい」という祈りです。 
そして祈ったあとに、こう思うのです。 
「しかし、自分自身の罪や痛みも背負うことのできない私に、そんなことできるのだろうか」と。 
神様はちゃんと知っておられて、一度もこの祈りは聞かれたことがありません。 
  
他の人の罪を背負うことのできる人は、自分自身に罪のない人だけです。 
そして、罪のない人、それはただ1人、イエスさまだけなのです。 
すべての人の罪のためにイエスさまは死にました。十字架上で死にました。 
イエス様が死んだとき、そこには奇跡は起きませんでした。情け容赦なく、苦しみ、痛み、血を流して、イエスさまは死んだのです。 
まるで、いけにえの動物のように。 
  
そのイエスさまが語ったたとえなのです。 
世の終わりのときに、裁きは必ずある。 
しかし、私はそのためのいけにえになる。 
すべての罪は私が背負う。 
私はそのために血を流す。 
その血を浴びるとき、毒麦は変わる!  
これがイエスさまの心なのです。 
  
誰も生まれついてのクリスチャンはいません。 
私の長男のはれるは、生まれる前から(おなかの中から)教会に通い、生まれてすぐに教会学校へ行き、献児式をして神様のものとなりました。 
しかし、彼も罪人です。 
間違いなく罪人です。 
  
神様の目から見れば、救われる資格を持った人など1人もいないのです。 
みんな裁かれて殺されるのです。 
みんな毒麦だったのです。 
人間の目から見たら立派な人も、立派な信仰を持った人も、すべて毒麦だったのです。 
例外はありません。 
イエスさまの弟子だったペテロやパウロも、旧約時代のアブラハムたちも、現代のマザーテレサやビリーグラハムやローマ法王だって、みんな毒麦だったのです。 
しかし、御言葉とイエスさまの血によって、よい麦に変えられたのです。 
毒麦を最後まで見守って、愛して、最後の最後までチャンスを下さるのがイエスさまなのです。 
  
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。 
かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(ペテロの第2の手紙3:9) 
  
どんなに、遺伝子組み換え技術が進んでも、毒麦をよい麦に完全に変えることはできません。 
しかし、イエスさまの十字架の血潮を浴びるならば、毒麦はまったく新しいよい麦に変えられるのです。 
本来焼かれて捨てられるはずだった私たち毒麦は、神様の宝物として、神様の倉に入れられるのです。 
  
あなたは毒麦です。 
私も毒麦です。 
しかし、イエスさまの血が私たちを変えました。 
あなたは今はよい麦です。 
私も今はよい麦です。 
天使が歌いながら、私たちを喜びます。 
そう、あなたも私も神様の宝物になったのです。 
  
あなたのためにお祈りしています。 
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