シリーズ イエスさまのたとえばなし 04  
『借金を赦された人のたとえ』 マタイ18:21-35 
  
今週の聖書箇所は、「借金を赦された人のたとえ」です。 
この箇所は、第70回礼拝でお話した箇所の続きの箇所になります。 
ペテロの質問に対して、イエス様が答えとして使われたたとえばなしです。 
ですから、このたとえの答えは「心から赦すこと」です。 
35節に、次のようにあります。 
あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」 
  
はじめに、タラントとデナリについて少し説明しましょう。 
1デナリというのは、労働者の1日分の給料にあたります。 
そして1タラントは、6000デナリです。 
すると、1万タラントは6000万デナリ、6000万日分の給料ということになります。 
6000万日は、なんと164271年です。 
もしも、1日分の給料を1万円とすると、1万タラントは実に6000億円になります。 
  
6000億円の借金というと、このごろは企業の大型倒産があるので、新聞紙上で見かけられる額です。 
しかし、個人としては、とうてい返済不可能な額でしょう。 
王はその借金を赦しました。 
彼がひれ伏してお願いしたからです。 
かわいそうに思ったからです。 
一方的な憐れみです。 
  
その後彼は、彼に100デナリ借金している人と出会います。 
100デナリは100日分の給料です。 
もちろん少額という訳ではありませんが、彼が赦された1万タラントに比べたら非常に小さいものです。 
それはたったの6000万分の100です。 
60万分の1です。 
0.00017%に過ぎません。 
でも彼は、それを赦すことができませんでした。 
60万分の1すら赦すことができなかったのです。 
  
ルカ7:36〜50では、「多く赦された者は多く愛する。多く愛する者は多く赦された者。」という原則が表されています。 
なのに、なぜ彼は仲間を赦せなかったのでしょうか? 
赦された者として、新しい人生を始められなかったのでしょうか? 
借金のある仲間を愛することができなかったのでしょうか? 
  
その答えは「赦されている実感」です。 
彼には赦されている実感がなかったのです。 
しかし、それはまったく根拠のない不安感です。 
王が赦すと言ったのだから赦されているのです。 
しかし彼には、根拠のない不安感・欠乏感・不足感があったのです。 
  
私が勉強を教えている生徒の1人は、授業中はよく問題を解けます。 
「この問題はできるからやってごらん」と言うと、必ず解けるのです。 
しかも、授業態度はまじめで、宿題もきちんとし、非常に好ましい生徒です。 
しかし、彼は学校の定期テストなどでは、平均点すら取れないのです。 
学校のレベルがとても高いという訳ではありません。 
また、テストが終わったあとに、同じ問題を見て「この問題はできるよ。やってごらん」と言って解かせるとやっぱり解けるのです。 
はじめは、理由が分かりませんでしたが、私の教室で、彼が模擬テストを受けたときに理由が分かってきました。 
それは、「根拠のないできない感」が彼にあるのです。 
それで、テストとか、集団授業になるとそのマイナスの感情が彼を支配するのです。 
それであわててしまい、実力が出せないのです。 
個別授業で「大丈夫、できるよ」と肯定をされると、生き生きとして解けるのです。 
  
本当は赦されていても、実感がなければ、赦されていないのと同じです。 
赦されていない者としての人生を送ることになってしまいます。 
赦しを拒否していることと同じになってしまいます。 
彼は赦されているという実感がなかったので、60万分の1も仲間を赦すことができなかったのです。 
  
聖書の世界では、罪からくる刑罰は「死」です。 
死刑です。 
永遠の滅びです。 
和風に言うならば「地獄」です。 
いのちを失うことです。 
私たちはすべて罪人です。 
死刑に当たる重罪人です。 
しかし、そのいのちを私たちは一方的に救われたのです。 
永遠の滅びから解放されたのです。 
赦されたのです。 
その私たちは赦されたいのちの60万分の1、他の人を赦しているでしょうか。 
いのちの価値の60万分の1です。 
69歳まで生きると、約60万時間生きることになります。 
私たちの1時間の命の価値はどれほどでしょうか。 
そして、その価値分以上に他の人をしっかりと心から赦していると言えるでしょうか。 
1万タラント赦された人に必要な「実感」は、私たちにも必要なのです。 
それは、「心から赦す」ためです。 
喜びの生活を生きるためです。 
  
神様は私たちをとことんまで赦される方です。 
大切なひとり子、イエスさまのいのちをかけてまで、私たちを愛しつくします。 
赦しつくします。 
罪を認めた者には、十字架は目に見える証拠です。 
神様からの赦しと愛を実感するための必要十分な証拠です。 
悪魔(サタン)は、その実感を奪おうとやっきになってきます。 
「お前には赦される資格がない」「お前は本当は赦されていない」 
さまざまなマイナスな感情を投げかけてきます。 
マイナスな言葉を投げかけてきます。 
それら一切は聞くに値しません。 
無視してください。 
私たちには確固たる証拠があります。 
繰り返し、繰り返し、愛と赦しの証拠、十字架を見上げましょう。 
十字架の血潮を浴びて、聖霊様を受け入れて、根拠のある赦され感を得るのです。 
そう、それは、ひれ伏すだけで得られるのです。 
  
あなたは人を赦せます。あなたが完全に赦されているからです。 
あなたは人を愛せます。あなたが完全に愛されているからです。 
その証拠は、イエス・キリストの十字架です。 
流された血潮です。打たれた傷です。 
本当の赦しと、本当の愛の証拠です。 
十字架の下で、ひれ伏して、本当の愛と赦しを受けましょう。 
  
あなたのためにお祈りしています。 
 |