26   タラントのたとえ(たとえ05 2004.11.13)
シリーズ イエスさまのたとえばなし 05
『タラントのたとえ』 マタイ 25:14-30
 
今週のたとえばなしは「タラントのたとえ」です。
先週のメッセージにも出てきたタラントですが、あらためておさらいしましょう。
1タラントは6000デナリです。
1デナリは労働者の1日分の給料ですから、1タラントは6000日分になります。
年中無休で約16年半、週休1日なら約19年分の給料ということになります。
1日分の給料を1万円とするならば、1タラントは6000万円です。
 
このたとえばなしで、5タラント預かった者と2タラント預かった者は商売をして成功します。
が、1タラント預かった者は商売をせずに土に埋めて隠してしまいます。
主人は商売を成功させた者を喜び、なまけて成功しなかった者には怒りました。
神様から預かったタラント(才能)をうまく使いましょう。
なまけてはいけません。
上手に管理し、よい実を結びましょう。
神様から与えられた物を使うならば失敗することはありません。
失敗するならば、あなたの中に何か悪いことがあるのです。
こういった「勝てば官軍、負ければ賊軍」の法則でこのたとえばなしを解説してはいけません。
そういう話ではないのです。
 
では、このたとえばなしの中心は何でしょうか。
それは「結果ではなく心」です。
結果としての行いが重要なのではなく、その動機となる心が大切だと言っているのです。
この世の法則ではなく、それが天国の法則なのです。
 
5タラント・2タラント預かった者は、主人の愛溢れる人格を知っていました。
その主人に信頼された喜びと、主人への愛・忠誠が動機となって、すぐに商売を始めたのです。
その結果として彼らは利益を得ました。
そのとき、それぞれ利益は違っていましたが、主人はこの二人にまったく同じ言葉をかけ、喜び、賞賛したのです。
このことから結果の大小によらずに、神様は心を喜ばれることが分かります。
 
1タラント預かった者はどうでしょうか。
彼も主人の愛溢れる人格を知っていたはずです。
しかし、主人から信頼された喜びと、主人への愛・忠誠よりも、それを受け入れることへの拒否感の方が強かったのです。
彼は主人からの信頼の証しである1タラントを自分の目の前(生活の場)におくことを拒み、土の中に隠したのです。
そして、主人が帰ってきたとき、その結果の怠惰を主人のせいにしました。
『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。』(24節)とありますが、主人が自分で種を蒔かないところから刈り取らせるのは当然です。
また、脱穀も主人が自分でしないのは主人の立場として当然です。
それらはしもべのするべき仕事です。
しもべである自分の身分すら忘れて主人を責めているのです。
1タラントの者は預け主の意思(信頼・愛)を踏みにじったのです。
 
たとえばなしで、「もしも」と考えるのも変ですが、少し考えてみましょう。
もしも、彼が、1タラントを自分の家の部屋の中に置いて、「ご主人から預かったけれども、私には仕事をする度胸がない、才覚もない。5タラントの者や2タラントの者のような力がないのです。ご主人様、すみません。」と毎日思っていたらどうでしょう。
きっと主人は、『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(21節,23節)と喜んだことでしょう。
また、彼が同じように商売をして、他の者のように成功せず、元金の1タラントはなくなり、そのうえ5タラントもの借金を作ってしまったとしましょう。
それでも主人は『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』と言うはずです。
それが主人の心なのです。
 
でも、なぜ能力にあわせて預けるタラントを変えるのかと疑問に思う人がいるかもしれません。
みんな同じ5タラントでもいいじゃないかと。
しかし、それぞれちがっていいのです。
大きなタラントの者も小さなタラントの者も同じように重要なのです。
世の中の流通がすべて大資本の商社だけになったら、味気ない世の中になると思いませんか。
また、大農場では生産しないような物を小さな農場が作ることによって食卓はさらに豊かになっていくでしょう。
 
私の通っていた大学の近くに「じば屋」という食堂がありました。
正式な名前はあるのですが、誰もそれを使いません。
しかも、じば屋というのも略称なのです。
おじいさんとおばあさんがやっている店なので、本当は愛称「じじばば屋」だったのです。
愛称の略称が「じば屋」というわけです。
私たちは落ち込んでいるときには友達同士で連れ立ったり、一人でじば屋に行ってゆったりとした時間を味わったものです。
それは近くにある大資本のレストランではできない貴重な働きです。
 
日常生活の面だけではなく、信仰生活においても同じことが言えます。
韓国には毎週日曜日に100万人が集まって礼拝する教会があります。
毎週100万人が礼拝する教会も、その10万分の1の人数のサンパウロゴスペルハウスも、神様にとっては同じように重要な働きなのです。
それぞれがそれぞれの特色を活かし、神様を賛美していけばいいのです。
 
当時のパリサイ人たちは、必死に律法を守っていました。
律法は神様が人間に与えた大切なものです。
しかし、神様の本当の心を忘れて、律法を守ることだけに固執しました。
失敗を恐れました。
神様に呪われることを恐れました。
その結果、律法の一番肝心な部分、「神様は愛である」ということを忘れ、恐れおののいて生きていたのです。
その不自由な人たちに対して、イエスさまは自由の律法への招きをしたのです。
 
私たちは失敗することを恐れなくていいのです。
神様は私たちの弱さも不完全さも十分にご存知です。
そんなことは百も承知の上で、人間を愛するのです。
天の神様は、愛する御子イエスさまを十字架にかけてでも人間を愛する方なのです。
 
タラントは、救い主を信じる信仰です。
信仰の大きい小さいに関わらず、受け入れたら神様とともに喜びの生活が待っています。
その神様の愛を踏みにじって捨てるなら、それは喜びも愛もない世界です。
神様に与えられた人生です。
与えてくださった神様に感謝し、愛を十分に感じ、愛をしっかりと受け入れるなら、私たちは喜びの中で生きることになります。
そして、神様は私たちを神様の喜びとし、神様が私たちの喜びになるのです。
 
信頼と愛の世界が、あなたの住むべき世界です。
自由と喜びの世界が、あなたの住むべき世界です。
恐れることはありません。失敗しても大丈夫。
どこまでも深い神様の愛が、あなたを赦します。愛します。
あなたは、神様の喜びです。     
  
あなたのためにお祈りしています。



| 前週へ | 年間目次 | 次週へ |


ホーム 集会案内 伝道師紹介 Message 2008 御言葉の旅 歴史(年表) リンク集 Message 2007 Message 2006 Message 2005
Message 2004


gospelhouse@church.ne.jpメールはこちらまで。