シリーズ イエス様と話そう 21
『ユダ』 ヨハネ 13:21-30
今回の登場人物は、ユダ。
十二弟子の1人で、イエスさまを裏切った男です。
福音書記事中での十二弟子の紹介のときも、必ず「裏切った」という形容がされています。
では、なぜユダは、イエスさまを裏切ったのでしょうか?
1.不正と貪欲のため
ユダは弟子たちの中で会計の係を任されていました。
しかし、彼はその会計の中から自分のために不正にお金を使っていたのです。
はじめは小さな不正だったかもしれませんが、「うそがうそを生む」のたとえどおりに、小さな不正が大きな貪欲を生んでいったのではないでしょうか。
そして、最終的には、イエスさまを売り飛ばすまでになったのです。
2.幻滅のため
ユダは、ユダヤ人でした。
当時のユダヤはローマの植民地で、ローマからの解放を夢見ていました。
「救い主が来て、ローマから解放してくれる。ローマを滅ぼし、ユダヤの国の再興がされる。」という期待です。
ユダはその救いをイエスさまに期待しました。
しかし、イエスさまはいっこうににローマを滅ぼす気配がありません。
イエスさまのされていることは、「愛」「聖め」「赦し」「癒し」など、彼の期待に合わないものだったのです。
3.力の強制のため
ユダは、イエスさまに力での解放を強制したかったのです。
もし、祭司たちに引き渡せば、イエスさまは否が応でも奇蹟の力を発揮して、そこからユダヤの解放が始まるだろうと考えたのです。
イエスさまに強制的にきっかけを与えようとしたのです。
これらは、すべて同じ思想から出ていると考えることができます。
それは「イエスさまを自分の言いなりにしようとする行為」です。
彼はイエスさまに従うという決心を持って弟子になりましたが、いつの間にか、イエスさまを自分の意思に従わせようとしていたのです。
まさに本末転倒です。
私は一時期、工場で働いていたことがあります。
総務課で、人事の仕事をしていたのですが、採用の関係で大学卒業予定の人たちと面接することもありました。
そんな時、このように言う学生が多いのに驚きました。
「私は、大学で・・・を専攻し、・・・を身につけました。この会社で・・・の仕事がしたいので、この会社を選んだのです。」
彼らは、会社が自分に何を望んでいるのかということは二の次で、自分がしたいことをするために会社に入るのです。
会社に要求を突きつけるのです。
景気が今よりもいい時期だったということもあってか、「何でもやります。使ってください。」と言う人には一度も出会えませんでした。
ユダはまさにこのような状況でした。
ユダは、イエスさまに自分が思っているような人になることを望み、イエスさま自身の思いやイエスさまの目的については何も考えていなかったのです。
このようなユダに対して、イエスさまはどのように接してこられたでしょうか。
まず、イエスさまはユダを十二弟子の1人に選びました。
ガリラヤ出身者が多数を占める中、イエスさまはあえてユダヤ出身のユダを選ばれたのです。
それは、ユダに対するイエスさまの愛の表れです。
決して、「裏切りの役目のため」ではありません。イエスさまは愛のお方です。
また、イエスさまは彼に十二弟子の中で会計係を任されました。
これはイエスさまの彼に対する信頼を表しています。
なぜなら、十二弟子の中にはマタイもいたのです。
もと取税人です。
取税人の仕事の真っ最中にイエスさまに招かれて従ったマタイです。
イエスさまは最適任者と思われるマタイを差し置いて、ユダを信頼したのです
26節にはこう書いてあります。
それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。
この行為は、当時のユダヤでは親愛を表す表現です。
裏切ろうとするユダに対し、親愛の表現をもって方向転換を訴えています。
しかし、皮肉なことに「そのとき、サタンが彼にはいった。」(27節)のです。
これがサタンの手口です。
一番の美しい愛を使って、それを一番醜い行為に変えていくのです。
これはアダムとエバが初めての罪に落ちたとき(創世記第3章)と同様です。
それを認めてなおかつ、イエスさまは言われました。
「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」(27節)
これは「もうあなたにとって方向転換は無理だからさっさと裏切りなさい」という事ではありません。
最後の愛の訴えです。
「私はあなたを愛してきた。今でも愛している。思い出してごらん。そして、本当にあなたがしようとしていることをしなさい。もう一度、私の愛の中に飛び込んできなさい。」という事です。
最後の最後までイエスさまは愛で立ち向かわれたのです。
奇蹟の力でユダを動けなくすることも、殺すことさえイエス様にはできました。
しかし、イエスさまは最後まで愛を呼び起こす訴えをしたのです。
しかしユダはその愛を受け取ることができませんでした。
彼はイエスさまの愛にもう一度方向転換することなく、イエスさまのもとを去っていきます。
外はもう夜でした。
象徴的な風景です。
ユダは闇の中へ入っていきました。
残った11人の弟子たちは、すべてを理解していたわけではありません。
いや、ほとんど理解できないでいました(28-29節)。
しかし、彼らはイエスさまとともに光の中にいたのです。
ユダが落ちた穴は、私たちにとって他人事ではありません。
いや、まさに私たち自身の問題といっていいでしょう。
自分の思い通りに神様を動かそうとするおごり・高ぶり、それは闇への入り口です。
私たちは敬虔に祈っているように見える時でさえ、自分の欲求ばかりを神様に押し付けてしまうことがあります。
神様を自分の奴隷にしてしまっているのです。
知らず知らず闇への扉を押し開けてしまっているのです。
しかし、私たちには希望があります。
光の世界への入り口があるからです。
光の世界への入り口は、神様の最高の愛を受け取る決心です。
たとえどんな状況でも、神様が愛してくださっていることを覚え、その愛を受け取ることです。
それは、無条件の愛、いのちがけの愛です。
イエスさまは、最後まで愛で立ち向かいます。
すべてを捧げるいのちがけの愛で、十字架の愛で立ち向かいます。
それはあなたを生かすためです。
本当の光の中で、あなたが喜んで生きるためです。
イエスさまの愛を受けて、本当のいのちを生きていきましょう。
あなたのためにお祈りしています。
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