28   盛大な宴会のたとえ(たとえ06 2004.12.04)
シリーズ イエスさまのたとえばなし 06 
『盛大な宴会のたとえ』 ルカ 14:16-24
 
今週の聖書箇所は「盛大な宴会のたとえ」です。
当時のユダヤの社会では、こういう宴会にお客さんを招待するときには、2回招くのが普通の手順となっていました。
1回目は、何月何日にするという招待です。
そして、当日、準備ができたらもう一度招待するのです。
 
さて、1回目の招待を受けて了解したにもかかわらず、当日の2回目の招待を断ることは非常に大きな侮辱行為です。
また、非常識な行動です。
その反対に、2回の招待を受けていないのに宴会にのこのこ行ってしまうのも非常識な行動でした。
どちらも普通にはありえないことなのです。
しかし、このたとえばなしでは、その「ありえないこと」が次々と起こるのです。
 
1人目は「畑」を2人目は「牛」を3人目は「結婚」を理由に招待を断りました。
畑や牛は、仕事や財産です。
仕事や財産は、それ自体悪いものではありません。
また、結婚は神様から与えられたすばらしいものです。
しかし、彼らの思いが問題です。
畑も牛も、買う前にしっかり見ているはずです。
また、どうしても宴会のその日にそれを見に行かなければならない理由はありません。
宴会の次の日でもいいのです。
 
結婚については、申命記24:5にこのようにあります。
人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。
これに何の義務をも負わせてはならない。
彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。
3人目は結婚(家庭)というよりも、宗教を理由にしたのです。
彼らは自分たちの思いを正当化するために、これらのものを利用しただけなのです。
 
仕事・財産・宗教・家庭は悪くありません。
どれもすばらしい、神様からのプレゼントです。
ただ、彼らはそれを理由に一番大切にしなくてはならなかったものを踏みにじったのです。
それは「招待してくれた人の愛」を踏みにじったことです。
このたとえは天国のたとえですから「神様の愛」を踏みにじったことになります。
仕事・財産・宗教・家庭という、神様から与えられた良いものが、よりによって、一番大切な、一番良いものである「神様の愛」を妨害してしまったのです。
 
また、この招きは、苦しみへの招きでも、悲しみへの招きでもありませんでした。
宴会です。盛大な宴会です。
喜びの宴、愛の宴への招きだったのです。
私たちは確認しましょう。
「神様の招きは、喜びの宴への招き・愛の宴への招き」なのです。
喜びの宴への招きを拒否すれば、本当の喜びを得られなくなります。
愛の宴への招きを拒否すれば、本当の愛を得られなくなります。
 
招いておいた客たちが次々と断り、宴会場は空っぽです。
当然主人は怒ります。
でも、それ以上に悲しい気持ちになるに違いありません。
たとえば、有名な力士や芸能人の結婚披露宴には、多い場合には1000人もの客が招待されます。
ところが当日、時刻になってみると、会場にいるのは新郎と新婦だけ。
これではしゃれにもなりません。
とてつもない悲しさとさびしさと怒りです。
もちろん、いくら日ごろたくさん食べる力士でも、1人で1000人分の食事は食べ切れません。
 
しかし、そんなとても考えられない状況が主人の前に提示されたのです。
主人は僕たちに命じました。
「無理にでも人々を連れて来なさい。」(23節)
これは、無理やり引き連れて来いという意味ではありません。
2回の招待をするのが道理なので、突然の招待をするのは無礼なのです。
無礼を承知で、無理を承知で、懇願して来て頂きなさいというわけなのです。
無理やりという意味ではなく、こっちが無理を言うのでひたすら懇願せよということなのです。
 
これは非常識な行動です。
しかし、神様の愛はなりふりかまわない愛なのです。
「無礼は承知の上でお願いします。どうか、どうか、宴会にお越しください。私はあなたとともに祝いたいのです。ともに喜びたいのです。愛し合いたいのです。非常識は百も承知です。道理が通らないのも、もっともです。しかし、十字架上で捧げる救い主のいのちが、不可能を可能とかえます。無理を道理とします。」
 
はじめこの愛は、街中のしいたげられていると考えられていた人々に向かいました。
そしてさらに、街道や垣根の人々へ向いたのです。
街道というのは、街の外です。
本来、宴会に関係ない人々です。
これはユダヤ人に対する異邦人を意味します。
垣根のところは、罪人や取税人が良く集まる場所です。
神様の愛は、弱者、異邦人、罪人までを無条件に愛するのです。
 
コリント人への第2の手紙の5章17節は、とても有名な聖句です。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
今日はその続きを読んでみましょう。
18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
20節のこの懇願が、このたとえばなしの懇願なのです。
これが神様の心なのです。
 
このたとえばなしは、しいたげられていると思う人々への励ましです。
また、神様を裏切ろうとしている人への愛の訴えです。
もし、畑や牛を見に行った人々が思い直して、宴会の始まる前に「やっぱり行こう」と考えたなら、神様は喜んで迎えてくれるはずです。
 
天国へ入るときの主導権は、招きか選びかという議論があります。
招きというのは、神様の招きです。
選びというのは、人間の意志です。
どちらが主導権をなのかということを考える人もがいますが、このたとえはそれにも答えています。
天国への条件は、100%神様の招きが主導権です。
また、100%人間の自由意志が主導権です。
100+100=100の世界なのです。
この世の理屈ではない、天国の理屈です。
 
100%の純度の神様の愛が、あなたのために準備されています。
純粋な、熱い、なりふりかまわない、いのちがけの愛です。
あなたに必要なことは、ただ100%信頼して受けるだけです。
神様の100%とあなたの100%が、天国への鍵を創ります。
100+100=100の世界が始まりました。それは愛の世界です。
 
あなたのためにお祈りしています。



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