29   パリサイ人と取税人のたとえ(たとえ07 2004.12.11)
シリーズ イエスさまのたとえばなし 07
『パリサイ人と取税人のたとえ』 ルカ18:9-14
 
今週のたとえばなしは「パリサイ人と取税人のたとえ」です。
この2人の対照的な姿から、イエスさまは何を教えてくださるのでしょうか?
まず、2人の祈る姿から見ていきましょう。
 
パリサイ人は、堂々と立って、祈りました。
新改訳聖書では、「心の中でこんな祈りをした。」と書いてあります。
こう読むと、何か心の中で静かに祈ったという印象がありますが、そうではありません。
パリサイ人たちは、必ずと言っていいほど、常に大きな声で祈るのです。
口語訳聖書では、「ひとりでこう祈った」と書いてあります。
英語の聖書でも、自分自身に祈ったという書き方があります。
 
ひとりで祈ったということは、彼は、神様に祈っていないということなのです。
神様抜きの祈りなのです。
そして、祈りの内容は、他人の罪深さを引き合いにして、自分自身が聖いと認められるようにしています。
彼の祈りは、神様にではなく、周りにいる者に向けられていました。
そして、彼らから「聖い」と認めてもらう、無理にでも認めさせるという目的があったのです。
「ゆする者は罪深いぞ。不正な者は罪深いぞ。姦淫する者は罪深いぞ。それに見てみろ、この取税人は本当に罪深いぞ。それに比べて私はなんと聖いんだ。ほらほら、みんな、ちゃんと聞けよ。」という祈りなのです。
いや、祈りではなく、ただのうるさい宣伝です。
 
淡い灰色の丸い紙を2枚用意します。
このうちの1枚を黒い紙の上に置くと、その灰色は白っぽく見えます。
もう1枚を、白い紙の上に置くと、今度は逆に、その灰色は黒っぽく見えるのです。
もともとは同じ灰色なのに、違って見えるのです。目の錯覚ですね。
パリサイ人は、周りにいる人たちを「黒」「黒」「黒」と断罪していくことで、自分自身の白さ(聖さ)を認めさそうとしました。
実際は汚れた灰色なのにです。
彼は、他の人との比較の中で、自分の聖さを誇示していたのです。
 
取税人は、離れて立ちました。
そして、胸をたたいて祈ったのです。
当時のユダヤ人にとって、胸をたたくというのは、塵をかぶることや衣を裂くことと同じように、激しい悲しみ・極限の悲しみの表現です。
そしてこう祈りました。
『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(13節)
彼は「私の罪を・・」ではなく、「こんな罪人の私を・・」と祈ったのです。
彼は自分の存在が、本当に汚れているという事を知っていたのです。
彼は自分の汚れを認め、神様に憐れみを求めました。
「私はこんなに汚れた者ですが、神様の聖さによって滅ぼされることなく、どうか憐れんで下さい」と祈っているのです。
 
彼は、他者との比較の中での聖さを考えませんでした。
彼は、神様の聖さとの比較の中で自分の罪深さを知ったのです。
まさに、白い紙の上に置かれた灰色の紙です。
彼は神様の聖さをまざまざと見せつけられ、自分の罪深さも突きつけられ、ただ神様に憐れみを求めたのです。
神様基準の聖さには、世界中の誰も到達することはできません。
もし、その基準を知るならば、私たちは自分の罪深さに絶望するのみです。
 
さて、パリサイ人と取税人、祈りの内容は別として、どちらが(比較すれば)聖い生活をしているでしょうか?
これはパリサイ人ですね。
彼自身が言う通り、彼は大きな罪を犯していないし、宗教的な行い(断食や献金)も必要以上にしています。
それでは、どちらが(完全に)聖いと認められたでしょう?
これは間違いなく取税人です。
イエスさまがそう言っているからです。
 
私は中学生のときに「熱中時代」という学園ドラマを見て、学校の先生になりたいと思いました。
そのことをつい学校の先生に言ってしまったときに、1人の先生がこう言いました。
「坂本、汚れた雑巾で掃除しても、きれいにならないぞ」
私は、いつも学校での掃除を遊び半分でしていたので、それを注意されているのかな、などと見当違いなことを思っていました。
しかし、そういう意味ではないのです。
中学生時代に好き勝手やって、わがまま放題だった私に、教師としての心構えを教えてくれたのです。
まず、自分の身を正しなさいと。
汚れた雑巾をまず洗いなさいと。
でも、当時の私には、汚れた雑巾という自覚もなかったので、馬の耳に念仏でした。
 
私たちに必要なのは、汚れた雑巾であることの自覚です。
そのために必要なのは、神様の徹底的な光を浴びることです。
徹底的な愛を浴びることです。
汚れた雑巾であることを知ったならば、私たちはそのあまりの醜さに絶望します。
でも、それでいいのです。
私たちが絶望し、神様の憐れみにすがるしかなくなったとき、私たちは神様に聖いとされるのです。
そのとき汚れた雑巾である私たちは洗われて聖くなるのです。
雑巾がバケツの水で洗われるように、私たちはイエス・キリストの十字架の血潮で洗われます。
 
もう私たちは他人と比較しなくていいのです。
他人を裁かなくていいのです。
イエスさまの十字架の血潮によって、すべては解決します。
いのちがけの十字架のとりなしによって、すべてが聖められるのです。
このたとえは、イエスさまの決意表明でもあるのです。
「私はいのちをかけてあなた方を洗い聖める」
私たちは、神様の光を存分に受けましょう。
神様の愛を存分に受けましょう。自分の罪深さ、醜さに絶望しましょう。
しかし、その絶望は、絶望のまま終わりません。
 
あなたは汚れた雑巾です。
私も汚れた雑巾です。
神様の強烈な光の前では、まったく汚れた者です。
神様の強烈な愛の前では、まったく愛のない者です。
しかし、十字架の血潮によって、あなたは洗われます。
完全に洗い聖められます。
愛と光にあふれた、新しい生き方が、いま、始まります。
 
あなたのためにお祈りしています。



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