30   ぶどうの木のたとえ(たとえ08 2004.12.18)
シリーズ イエスさまのたとえばなし 08
『ぶどうの木のたとえ』 ヨハネ 15:1-9
 
私がまだ日本にいた頃のことです。
人気プロ野球選手の持ち物を調べる特集をテレビで見ました。
そのときの調査項目は、自動車と腕時計でした。
 
さすがにたくさんの年棒をもらう選手だけあって、自動車も高級外車が並びます。
ベンツやBMW、ロールスロイス、フェラーリなどです。
国産車でも大きくて頑丈な車が目立ちます。
プロスポーツ選手は体が大切だからですね。
 
時計でも、やはりロレックスやブルガリなどの高級品が並びます。
しかし、数人、腕時計を持っていない人たちがいたのです。
そして彼らは一様に「携帯電話が時計代わり」と答えたのです。
理由は「正確だから」なのです。
世界の最高級時計よりも、携帯電話のほうが正確だというのです。
 
その秘密はどこにあるのでしょうか?
それは、携帯電話はメインコンピュータと通信するたびに時刻を補正するからです。
そうすれば、いつも正確な時刻を示すことができます。
 
今日のたとえばなしも、まさにそこがポイントです。
このたとえばなしの中心は、テキスト中に何度も出てくる言葉、「イエスさまにつながっていること」「イエスさまにとどまること」です。
 
このたとえが語られたのは、最後の晩餐のあとです。
十字架にかかる前の弟子たちへの最後のメッセージです。
その内容は「お前たちはもう十分に私の愛を受けた。だからこれからは、それをもとに自力でがんばれ。」ではありませんでした。
がんばって出て行けではなく、私の愛にとどまれとイエスさまは語ったのです。
 
イエスさまの生涯は、天の神様との親密な交わりの中で過ごした生涯でした。
同じように、イエスさまとの親密な交わりの中で過ごすことを、イエスさまは求めているのです。
携帯電話がメインコンピュータとつながっていくように、私たちがイエスさまと絶えず、繰り返しつながっていくことを望まれたのです。
 
では、どのようにしたらいいのでしょうか?
多くの人たちは言います。「祈りだ」
まさにその通りです。
絶えず祈ることによって、イエスさまとつながり続けることができます。
つながるための手段としての祈り、まさに正解です。
しかし私たちは注意しましょう。
祈りは手段です。
決して目的ではありません。
 
イエスさまの生涯を映し出した映画は何本もあります。
その中のひとつで、イエスさまをとても人間味豊かに描いているものがありました。
その映画の中で、イエスさまは冗談を言い、弟子たちとふざけあいます。
そして、ヨセフ(イエスさまの父親)が死んだシーンが出てくるのです。
そのときイエスさまは、神様に嘆きます。
絶叫です。
「何で彼を死なせたんだ」「生き返らせてくれ」「僕には彼が必要なんだ」
しかし、ヨセフはよみがえりませんでした。
 
この箇所は聖書には出ていませんので、事実かどうかはわかりません。
しかし、この映画の中でイエスさまのとった態度は、私たちにとって必要な態度なのではないでしょうか。
 
悲しくて悲しくて祈れない。
でも、神様にそれをぶつける。
つまり、つながる。
苦しくて苦しくてやりきれない。
でも、つながる。
何がなんだかわからない。
でも、つながる。
祈ることは重要な手段ではありますが、祈れない時にでも神様につながれるのです。
 
そのとき、携帯電話の時計は、メインコンピュータによって合わせられるのです。
そのとき、枝は幹から栄養が与えられ、生きるのです。
そしてまた、メインコンピュータのデータは携帯電話の中で生き、幹のいのちは枝の中で生きるのです。
 
救い主イエスさまの血潮の中で私たちは聖められ、救い主イエスさまの愛の中で私たちが生きる。
救い主イエスさまの血潮が私たちの中で生き、救い主イエスさまの愛が私たちの中で生きる。
これがイエスさまの十字架前の最後の弟子たちへのメッセージです。
そして、現代に生きる私たちへのメッセージなのです。
最後まで残る戒めなのです。
 
イエスさまの十字架の愛の中で、あなたは生かされます。
イエスさまの十字架の愛が、あなたの中で生きます。
あなたは、がんばらなくていいのです。
悩みも、苦しみも、そのまま抱いて、この愛につながりましょう。
あなたが、あなたらしく生きるためです。
そして、これが最後まで残る愛の戒めです。
 
あなたのためにお祈りしています。



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