シリーズ イエスさまのたとえばなし 08 
『ぶどうの木のたとえ』 ヨハネ 15:1-9 
  
私がまだ日本にいた頃のことです。 
人気プロ野球選手の持ち物を調べる特集をテレビで見ました。 
そのときの調査項目は、自動車と腕時計でした。 
  
さすがにたくさんの年棒をもらう選手だけあって、自動車も高級外車が並びます。 
ベンツやBMW、ロールスロイス、フェラーリなどです。 
国産車でも大きくて頑丈な車が目立ちます。 
プロスポーツ選手は体が大切だからですね。 
  
時計でも、やはりロレックスやブルガリなどの高級品が並びます。 
しかし、数人、腕時計を持っていない人たちがいたのです。 
そして彼らは一様に「携帯電話が時計代わり」と答えたのです。 
理由は「正確だから」なのです。 
世界の最高級時計よりも、携帯電話のほうが正確だというのです。 
  
その秘密はどこにあるのでしょうか? 
それは、携帯電話はメインコンピュータと通信するたびに時刻を補正するからです。 
そうすれば、いつも正確な時刻を示すことができます。 
  
今日のたとえばなしも、まさにそこがポイントです。 
このたとえばなしの中心は、テキスト中に何度も出てくる言葉、「イエスさまにつながっていること」「イエスさまにとどまること」です。 
  
このたとえが語られたのは、最後の晩餐のあとです。 
十字架にかかる前の弟子たちへの最後のメッセージです。 
その内容は「お前たちはもう十分に私の愛を受けた。だからこれからは、それをもとに自力でがんばれ。」ではありませんでした。 
がんばって出て行けではなく、私の愛にとどまれとイエスさまは語ったのです。 
  
イエスさまの生涯は、天の神様との親密な交わりの中で過ごした生涯でした。 
同じように、イエスさまとの親密な交わりの中で過ごすことを、イエスさまは求めているのです。 
携帯電話がメインコンピュータとつながっていくように、私たちがイエスさまと絶えず、繰り返しつながっていくことを望まれたのです。 
  
では、どのようにしたらいいのでしょうか? 
多くの人たちは言います。「祈りだ」 
まさにその通りです。 
絶えず祈ることによって、イエスさまとつながり続けることができます。 
つながるための手段としての祈り、まさに正解です。 
しかし私たちは注意しましょう。 
祈りは手段です。 
決して目的ではありません。 
  
イエスさまの生涯を映し出した映画は何本もあります。 
その中のひとつで、イエスさまをとても人間味豊かに描いているものがありました。 
その映画の中で、イエスさまは冗談を言い、弟子たちとふざけあいます。 
そして、ヨセフ(イエスさまの父親)が死んだシーンが出てくるのです。 
そのときイエスさまは、神様に嘆きます。 
絶叫です。 
「何で彼を死なせたんだ」「生き返らせてくれ」「僕には彼が必要なんだ」 
しかし、ヨセフはよみがえりませんでした。 
  
この箇所は聖書には出ていませんので、事実かどうかはわかりません。 
しかし、この映画の中でイエスさまのとった態度は、私たちにとって必要な態度なのではないでしょうか。 
  
悲しくて悲しくて祈れない。 
でも、神様にそれをぶつける。 
つまり、つながる。 
苦しくて苦しくてやりきれない。 
でも、つながる。 
何がなんだかわからない。 
でも、つながる。 
祈ることは重要な手段ではありますが、祈れない時にでも神様につながれるのです。 
  
そのとき、携帯電話の時計は、メインコンピュータによって合わせられるのです。 
そのとき、枝は幹から栄養が与えられ、生きるのです。 
そしてまた、メインコンピュータのデータは携帯電話の中で生き、幹のいのちは枝の中で生きるのです。 
  
救い主イエスさまの血潮の中で私たちは聖められ、救い主イエスさまの愛の中で私たちが生きる。 
救い主イエスさまの血潮が私たちの中で生き、救い主イエスさまの愛が私たちの中で生きる。 
これがイエスさまの十字架前の最後の弟子たちへのメッセージです。 
そして、現代に生きる私たちへのメッセージなのです。 
最後まで残る戒めなのです。 
  
イエスさまの十字架の愛の中で、あなたは生かされます。 
イエスさまの十字架の愛が、あなたの中で生きます。 
あなたは、がんばらなくていいのです。 
悩みも、苦しみも、そのまま抱いて、この愛につながりましょう。 
あなたが、あなたらしく生きるためです。 
そして、これが最後まで残る愛の戒めです。 
  
あなたのためにお祈りしています。 
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