シリーズ イエス様と話そう 07  
『サマリヤの女』 ヨハネ 4:3-42 
  
はじめ、彼女はイエスさまを「ユダヤ人」と呼んでいます。(9節) 
この言葉には、明らかな敵意・拒否が含まれています。 
見知らぬユダヤ人の男(イエスさま)に、話しかけられるのが嫌だったのです。 
しかし実際は、彼女は誰にも話しかけて欲しくなかったのです。 
彼女が水をくみに来た時間がそれを物語っています。 
時は6時ごろであった(6節)と書いてあります。 
これを現在の時刻に直すと、正午ごろになります。 
こんな暑い時間帯に、水くみに来る者など、普通はいません。 
  
イエスさまは、神様の賜物の話をして、さらに、生ける水の話をします。(10節) 
そこで彼女はイエスさまを「先生」と呼び変えます。 
しかし、この言葉には尊敬の意味は入っていないのです。 
ユダヤ人の宗教家らしいということで「先生」と呼んではいるものの、彼女にとっては尊敬に値する人物ではないのです。 
むしろ、軽蔑すべきユダヤ人宗教家をからかっていると考えていいでしょう。 
「あなたは一体どうやって水を手に入れるつもりなの?できっこないじゃないの、馬鹿みたい!」 
  
次にイエスさまは永遠のいのちについて語ります。(14節) 
しかし彼女は、イエスさまをからかい、話しをはぐらかします。 
「そんなに便利な物なら、私にちょうだい。さあ、出してごらんよ!」 
  
イエスさまは言われました。 
「あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(16節) 
彼女に衝撃が走りました。 
もうからかうことも、はぐらかすこともできません。 
イエスさまがすべてご存知だったからです。 
彼女は5回結婚し、そしてその結婚に破れました。 
そして今は、結婚せずに男と一緒にいるのです。 
彼女の最も触れられたくない過去です。 
彼女の心の痛みです。 
消すことのできないよごれです。 
これがあるがゆえに、彼女は誰も来ない時間帯に、しかも町はずれの井戸に水くみに来なければならないのです。 
  
イエスさまは彼女に彼女の痛みを直視させました。 
彼女のよごれを直視させました。 
彼女の仮面ははがされました。 
彼女はありのままの自分を直視しました。 
罪ある身のまま、神様の前に引き出されたかのようです。 
彼女は動揺します。 
彼女はイエスさまを「預言者」と呼び直します。 
イエスさまを神様から使わされた人と認めたのです。 
そして聞きます。 
「私はどうしたらいいの?」 
20節は神学論議のように見えますが「私はどのように礼拝したらいいの?」「私はどのように神様の前に出ればいいの?」という彼女の問いなのです。 
  
罪あるままでは神様の前に出ることができません。 
神様が裁かれるからです。 
彼女はそれもよく知っています。 
だから逃げて、はぐらかしてきたのです。 
彼女はキリスト=メシア=救い主に期待しています。 
その方が来たなら、私たちに教えてくれると。イエスさまは、はっきりと宣言しました。 
「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(26節) 
  
彼女はすべてを悟りました。 
もうイエスさまのことを「預言者」とは言いません。 
「キリスト」と呼んでいます。(29節) 
彼女にはもはや何も恐れるものはありません。 
自分の痛みやよごれをすべて受け止めてくれる方に出会ったから。 
彼女は町の人に告げに行きました。 
「私のしたこと全部」・・今までは隠し通したかったことです。 
今やそれは、神様の栄光をあらわすものになりました。 
救い主の恵みをあらわすものになりました。 
彼女の痛みやよごれはすべて宝になったのです。 
  
彼女に誘われたサマリヤ人もイエスさまを信じます。 
はじめは彼女の言ったことで信じた者もいましたが、彼らは自分でイエスさまの言葉を聞いて信じたのです。 
私たちもイエスさまの言葉を聞きましょう。 
誰かからイエスさまの話を聞くだけでなく、自分でイエスさまから聞きましょう。 
イエスさまはあなたに話しかけたいのです。 
心の耳を澄ましてみましょう。 
私たちの痛みも、弱さも、よごれも受け止めてくださるイエスさまの優しい声を聞きましょう。 
そう、もうはぐらかさないで。 
  
イエスさまは、あなたの痛みをご存知です。 
そしてイエスさまは、あなたにそれを直視させます。 
それは、癒すため、救うためです。 
はぐらかさなくていいのです。逃げなくていいのです。 
イエスさまは、あなたの痛みとともにいます。 
そしてあなたに語りかけます。 
「あなたと話しているこのわたしがそれです。」 
  
あなたのためにお祈りしています。 
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