シリーズ イエス様と話そう 08  
『子どもたち』 マルコ 10:13-16 
  
今週の聖書箇所は、とても短いです。 
しかしながら、イエスさまの愛を存分に表現しているところです。 
この中から『イエスさまの姿勢』と『子どもの姿』に焦点をあてて、御言葉を解き明かしていきましょう。 
  
『イエスさまの姿勢』 
弟子たちが人々を彼らをしかったこと(13節)。 
これは、逆説的に感じるかもしれませんが、弟子たちが成長してきた証拠です。 
イエスさまとともにいて彼らは確実に成長しているのです。 
先週の聖書箇所の中で、弟子たちはサマリヤの町に食べ物を買いに行きました。 
これは、彼らの中で、サマリヤ人への偏見が無くなってきていることの表れです。 
今週の箇所は、そのさらに後の出来事です。 
  
イエスさま一行は、いまエルサレムへの道の途中です。 
エルサレムへの道、それは十字架への道、イエスさまの死への道なのです。 
イエスさまの心中には死への覚悟があります。 
まさに死と対決しながらのエルサレムへの旅路なのです。 
弟子たちは、そんなイエスさまに対して配慮したのです。 
子どもたちが寄ってくることは、イエスさまに対して負担であろうと推測したのです。 
彼らは、イエスさまの十字架をきちんと受け止め、そして配慮できる弟子に成長していたのです。 
  
しかし、イエスさまの反応は弟子たちからすれば意外なものでした。 
憤って、彼らに言われた。(14節)  
子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(16節) 
そうです。 
イエスさまの愛は、人間が考えることのできる範囲を超えた愛なのです。 
常識、理屈、理性、感情、知識、これらではイエスさまの愛を説明しきれません。 
イエスさまの愛は、極限状態の中で、なおかつ人を愛し、祝福し、赦す愛なのです。 
  
『子どもの姿』 
子どもと聞いて、あなたはどんなイメージを持ちますか? 
無力で、身分が低くて、人数にも数えられない取るに足らない者でしょうか。 
そうではありません。 
子どもは確かに大人に比べれば弱いですが、「親」から見た「子ども」は、身分も低くなく、取るに足らない者ではありません。 
素直で、従順で、謙遜な者でしょうか。 
そうでもありません。 
それは大人が子どもに対して要求するイメージであって、子どもそのものを表しているとは言えません。 
  
僕は小学生のころ、友達とよく自転車の二人乗りをしました。 
その二人乗りには一つの特徴がありました。 
それは「必ず僕がこぐ役である」ということです。 
僕がこぐのが好きだったのではありません。 
後ろに乗ることができない少年だったのです。 
僕が後ろに乗ると、前の人がちゃんとハンドルを切るかどうか気になって、のぞき込んでしまうのです。 
道路に何か異物が落ちてないか気になって、のぞき込んでしまうのです。 
そしてバランスが崩れて、こける。 
後ろだとジタバタして危ないから、前でこぐのです。 
  
このときの僕はもう幼い子どもではありません。 
幼い子どものころは、母親の運転する自転車にちゃんと乗せられていました。 
安心して乗っていました。 
子ども、それは、信じる者の中でくつろぐことのできる者です。 
子どもは親を信頼し、すべてを委ねられる者なのです。 
子供は親に抱かれているとき、完全に安心しています。 
「いつ落とされるかわからないから、きちんと用心しよう」とか「受身の練習もしなくちゃ」と思う子どもはいません。 
  
あなたは、日々の生活の中で、何に安心してすべてを委ねられますか? 
お金? 仕事? 地位? 名誉? 家族? 夫? 妻? それとも神様? 
  
神様は、私たちを子どもとしてくださいました。 
イエスさまの十字架によって、私たちは神様の子どもなのです。 
神様にすべてを委ねることが赦される身分なのです。すばらしい特権です。 
子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。(15節) 
さあ、神様の子どもらしく、安心して神様に抱かれましょう! 
  
イエスさまの愛は、すべてを超えた愛です。 
人間の考えも、常識も、痛みも、理性も超えた愛です。 
それほどまでに、あなたを愛し、祝福し、赦す愛です。 
あなたは、この愛にどう向き合いますか? 
自分の力で何かしようとジタバタしますか。 
それとも、子どものように、信頼し、すべてを委ねますか。 
イエスさまは、腕をひろげて待っておられます。 
  
あなたのためにお祈りしています。 
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