8   子どもたち(話そう08 2004.06.19)
シリーズ イエス様と話そう 08 
『子どもたち』 マルコ 10:13-16
 
今週の聖書箇所は、とても短いです。
しかしながら、イエスさまの愛を存分に表現しているところです。
この中から『イエスさまの姿勢』と『子どもの姿』に焦点をあてて、御言葉を解き明かしていきましょう。
 
『イエスさまの姿勢』
弟子たちが人々を彼らをしかったこと(13節)。
これは、逆説的に感じるかもしれませんが、弟子たちが成長してきた証拠です。
イエスさまとともにいて彼らは確実に成長しているのです。
先週の聖書箇所の中で、弟子たちはサマリヤの町に食べ物を買いに行きました。
これは、彼らの中で、サマリヤ人への偏見が無くなってきていることの表れです。
今週の箇所は、そのさらに後の出来事です。
 
イエスさま一行は、いまエルサレムへの道の途中です。
エルサレムへの道、それは十字架への道、イエスさまの死への道なのです。
イエスさまの心中には死への覚悟があります。
まさに死と対決しながらのエルサレムへの旅路なのです。
弟子たちは、そんなイエスさまに対して配慮したのです。
子どもたちが寄ってくることは、イエスさまに対して負担であろうと推測したのです。
彼らは、イエスさまの十字架をきちんと受け止め、そして配慮できる弟子に成長していたのです。
 
しかし、イエスさまの反応は弟子たちからすれば意外なものでした。
憤って、彼らに言われた。(14節) 
子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(16節)
そうです。
イエスさまの愛は、人間が考えることのできる範囲を超えた愛なのです。
常識、理屈、理性、感情、知識、これらではイエスさまの愛を説明しきれません。
イエスさまの愛は、極限状態の中で、なおかつ人を愛し、祝福し、赦す愛なのです。
 
『子どもの姿』
子どもと聞いて、あなたはどんなイメージを持ちますか?
無力で、身分が低くて、人数にも数えられない取るに足らない者でしょうか。
そうではありません。
子どもは確かに大人に比べれば弱いですが、「親」から見た「子ども」は、身分も低くなく、取るに足らない者ではありません。
素直で、従順で、謙遜な者でしょうか。
そうでもありません。
それは大人が子どもに対して要求するイメージであって、子どもそのものを表しているとは言えません。
 
僕は小学生のころ、友達とよく自転車の二人乗りをしました。
その二人乗りには一つの特徴がありました。
それは「必ず僕がこぐ役である」ということです。
僕がこぐのが好きだったのではありません。
後ろに乗ることができない少年だったのです。
僕が後ろに乗ると、前の人がちゃんとハンドルを切るかどうか気になって、のぞき込んでしまうのです。
道路に何か異物が落ちてないか気になって、のぞき込んでしまうのです。
そしてバランスが崩れて、こける。
後ろだとジタバタして危ないから、前でこぐのです。
 
このときの僕はもう幼い子どもではありません。
幼い子どものころは、母親の運転する自転車にちゃんと乗せられていました。
安心して乗っていました。
子ども、それは、信じる者の中でくつろぐことのできる者です。
子どもは親を信頼し、すべてを委ねられる者なのです。
子供は親に抱かれているとき、完全に安心しています。
「いつ落とされるかわからないから、きちんと用心しよう」とか「受身の練習もしなくちゃ」と思う子どもはいません。
 
あなたは、日々の生活の中で、何に安心してすべてを委ねられますか?
お金? 仕事? 地位? 名誉? 家族? 夫? 妻? それとも神様?
 
神様は、私たちを子どもとしてくださいました。
イエスさまの十字架によって、私たちは神様の子どもなのです。
神様にすべてを委ねることが赦される身分なのです。すばらしい特権です。
子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。(15節)
さあ、神様の子どもらしく、安心して神様に抱かれましょう!
 
イエスさまの愛は、すべてを超えた愛です。
人間の考えも、常識も、痛みも、理性も超えた愛です。
それほどまでに、あなたを愛し、祝福し、赦す愛です。
あなたは、この愛にどう向き合いますか?
自分の力で何かしようとジタバタしますか。
それとも、子どものように、信頼し、すべてを委ねますか。
イエスさまは、腕をひろげて待っておられます。
 
あなたのためにお祈りしています。



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