シリーズ イエス様と話そう 09  
『姦淫の女』 ヨハネ 8:3-11 
  
今週は『姦淫の女』の聖書箇所から、『イエスさまの挑戦』というメッセージです。 
  
姦淫の現場で捕らえられた女が、イエスさまの前に連れて来られます。 
神様の与えた律法では、姦淫は死刑です。 
イエスさまに意見を聞くことなど何も必要なく、死刑は確定しているのです。 
しかし彼らは、イエスさまを陥れるための道具として彼女を利用したのです。 
どんな答えをしようと、それを利用してイエスさまを陥れようとしたのです。 
  
もしイエスさまが彼女を赦したなら、イエスさまは律法を破ることになります。 
神様の与えた律法を破るということは、神様にそむくという事になります。 
イエスさまの活動を「罪を軽視する堕落した宗教」と攻撃することができます。 
  
そして、赦さなかったなら、つまり死刑を宣告したなら、2つの攻撃ができます。 
1つは、イエスさまの伝道の中心は「愛」と「赦し」でした。それを粉砕できます。 
もう1つは、当時ユダヤはローマの植民地で、死刑を宣告する権利がなかったのです。 
イエスさまをローマの敵にすることができたのです。 
  
イエスさまは、この窮地において、指で地面に書いておられました。(6節・8節) 
何を書いていたのかは定かではありません。 
聖書に書いてないからです。 
いろいろな説がありますが、ここでは何を書いていたかが大問題なのではなく、何のためにそうしていたかが重要です。 
イエスさまは、彼らに時間を与えたのです。 
彼らが自分自身を見るため(知るため)の時間です。 
  
6節でイエスさまが書いていたのは、彼らが繰り返し問い続けるためです。 
そのことによって、彼ら自身の残虐さを知らせたかったのです。 
一人の女性の命をイエスさまを陥れるための道具としている姿。 
神様の権威をもって人を裁き、人を捨てる残酷さ。 
彼らに問い続けさせることで、それはいっそう鮮明になっていきます。 
  
そして、そこでイエスさまは言われました。 
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 
そしてもう一度イエスさまは地面に書きます。 
この時間で、イエスさまは、彼らに自分自身の罪深さを知らせたのです。 
  
イエスさまは彼らの人生に挑戦しました。 
じっくり自分自身を見つめる時、自分自身の残虐さ・罪深さを知る時、それは神様の「愛」と「赦し」を知るチャンスです。 
未来を変えるチャンスです。 
神様の「愛」と「赦し」を受けなさい。 
私の十字架はあなた方のためのものだ! 
イエスさまは無言で彼らに呼びかけているのです。 
イエスさまが書いている最中、彼らは年長者から一人一人帰っていきます。 
美しい風景です。 
その帰って行く一人一人を、イエスさまは招いているのです。 
  
そして彼女にイエスさまは言われました。 
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」 
  
人間は過去でできていると考えることができます。 
過去が現在をつくり、現在が未来をつくるという考え方です。 
因果応報もその1つでしょう。 
しかしイエスさまはそうではありませんでした。 
イエスさまは、過去がどうだったからではなく、未来にどうなるかを問題とされました。 
  
イエスさまは彼女の人生にも挑戦されたのです。 
イエスさまは彼女に「赦す」とは言っていません。 
しかし、彼女を信頼し、未来の彼女の人生に挑戦したのです。 
過去の重荷はイエスさまが担います。 
イエスさまの十字架は、私たちの過去を担ってくださったのです。 
聖い未来への挑戦なのです。 
  
パリサイ人や律法学者のその後も、彼女のその後も聖書には書いてありません。 
いわば未完の物語です。 
そして、私たちの人生もいまだ未完成。 
イエスさまは私たちの人生に挑戦しています。 
  
イエスさまは、あなたを愛するがゆえに、あなたの人生に挑戦します。 
あなたの過去に、十字架の血潮で挑戦し、罪の赦しを与えます。 
あなたの現在に、信頼と愛で挑戦します。 
あなたの未来に、聖さと祝福の人生をつくり出す挑戦をします。 
イエスさまの挑戦、それは命をかけた挑戦です。 
あなたは背を向けて逃げますか? 
それとも、イエスさまの挑戦に向き合いますか? 
  
あなたのためにお祈りしています。 
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