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羊飼イエス・キリスト教会主日礼拝説教 |
2013年6月2日
武内 明
『さばくとおりに、さばかれます』
マタイ 7:1〜6
(1)「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(1?2)・・
キリストは再び、さばき主である王としてこの地上に来られます。これは、さばきを否定するものではありません。また、物事(ものごと)の批評や善悪の判断をしてはいけないと禁じられているのでもありません。主は、教会に正義がなされることを願っておられます。
18章では、「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。(18:15f)」と弟子たちに教えておられます。教会が健全に成長するためには、善悪に関する聖書的な正しい判断が必要です。
「さばく」というギリシヤ語には「強く非難する」という意味合いがあり、ここではその意味で用いられています。ここでイエスが禁止しておられるのは、人間が作った基準、すなわち、主が「人間の教え」と言われたパリサイ人の「口伝律法」によって人をさばくことです。パリサイ人たちは彼らの「口伝律法」によって日常的に人をさばいていたからです。また福音書において明らかなように、彼らは特に、「口伝律法」によってイエスと弟子たちを激しく非難し、さばいていました。
そのため主は、"パリサイ人たちのように"という意を込めて「さばいてはいけません。さばかれないためです。」と言われたのです。そして、「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」と、人をさばくその同じ基準で、同じ目安で自分がさばかれることになることを教えられたのです。
私たちは日頃から"神"ということばをよく使います。この"神"ということばは、詩篇に「幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。(詩144:15)」とあるように、人間と絶対者の関係を表すことばです。私たちの神である聖書の神は三位一体の神であり、その御名はヘブル語の聖4文字YHWH(ヤハウェイ)、また主イエス・キリストです。そして、この唯一まことの神は、私たちの創造主であり、私たちの唯一の主権者、全知全能の絶対者です。
一方で、"神"とは"基準"でもあります。ハバクク書に「自分の力を自分の神とする者は罰せられる。(ハバクク1:11)」、またローマ書に「そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。(ローマ16:18)」と書かれています。この2つの聖句は、自分を神として自分の物差しでものの価値を決め、自分の欲に仕える不信仰者について言われたものです。
まことの神を信仰するクリスチャンは、この唯一の神をよりどころとし、すべてにおける基準として従います。そして、神を基準とするということは、啓示された御ことばである聖書を基準とするということにほかなりません。
万物の創造主であり、唯一まことの神である聖書の神以外のものを神とするのが偶像礼拝ですが、それは、神ならぬ自分を神とすることに始まります。アダムは、御ことばに従わず、自分を神とした自分の判断によって過ちを犯し、この世に罪を生じさせました。
すべての偶像崇拝は、この自分を神とする偶像に始まります。まことの神を知らない生まれながらの人は、自分を神として偶像化し、別の偶像を造り出すのです。このことから、まことの神である聖書の神を信じない人はすべて偶像礼拝者であると言えます。
神はウィットに富むお方であり、神以外のものを基準とする偶像崇拝者が人をさばく基準、その量りに従って、さばくその偶像崇拝者自身をさばかれます。イエスは、神にあるこの真実を18章の「天の御国」のたとえでも教えておられます。
18章23節からお読みします。「天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。(マタイ18:23?35)」自分を神として、自分の欲に仕える者の末路がここにあります。
神に従う者、御ことばに従う者には大きな報いが用意されています。私たちは神の子であり、キリストとの共同相続人です。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものです(ローマ8:17f)。御国の栄光の希望を胸に、日々喜び、励まし合って歩んでまいりましょう。
(2)「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(3?5)・・
「ちり」は、比喩的に小さいものを表すことばで、木屑(くず)や藁(わら)のかけらでもあります。「梁(はり)」は柱の上に置いて建物を支える横木です。主が、このような大工の仕事場を連想させるたとえを用いられたのは、主ご自身が大工であったのと、当時、建築が盛んなイスラエルで大工作業が人々に身近であったからでしょう。
人間は、アダムの犯した罪によって全的に堕落した存在、つまり何一つ完全なもののない状態にあります。「ちり」と「梁」は、人のうちの罪でもあり、真理をゆがめ阻(はば)む障害となるものです。主がたとえられた目の中の「梁」は、パリサイ人たちの口伝律法でしょう。また、5節の「偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。」という命令が2人称で「あなた方」と語られていることから、これがそこにいる弟子たちに言われたものであることが分かります。イエスが弟子たちを偽善者と呼ばれたのは聖書においてここだけです。主が「人間の教え」と言って否定された「口伝律法」が、この時代に人々の間に広く定着していたことがうかがえます。弟子たちは、宗教的指導者であったパリサイ人たちにならって、同じように口伝律法によって人を非難し、さばいていたのでしょう。主はそれを、「偽善者たち。まず自分の目から梁-すなわち"人間の教え"-を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」と言ってそれを正し、弟子たちを戒められたのです。
私たちにパリサイ派の「口伝律法」はありませんが、聖書によらない基準、神を否定する人間中心のヒューマニズムやこの世の価値観によって人をさばき、批判するなら、それが私たちの目の中の「梁」です。
(3)「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」(6)・・
主は、これまで、神によらない"人間の教え"である「口伝律法」によって人をさばくことの誤りを指摘し、禁止されました。ここでは、正しくさばくこと、すなわち正しい判断の必要性とその大切さを説かれます。
大切なのは、神の基準でさばくこと、すなわち判断することです。そしてそれを身に着けることです。神の基準、それは聖書です。『ウェストミンスター大教理問答』に、「旧・新約聖書が、神の御ことば、信仰と服従のただ1つの基準である。(大3:答3)」とあります。
「聖なるもの」とは、祭司と家族しか食べることが許されなかったささげものの食物のことでしょう。そのようなものを犬に与えるのはもってのほかのことです。
真珠は、箴言において、「知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられない。(箴言8:11)」と神の知恵と比較され、また主が、「天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。(マタイ13:45f)」と、天の御国にたとえられるほど高価で価値あるものです。価値ある真珠を豚の前に投げることは愚かな行為です。犬や豚にこのようなことをすれば、それを足で踏みにじり、怒って私たちに向かって来ます。
「聖なるもの」とは、神に属するもの、神の御ことばです。高価な「真珠」は、神の国の福音を示します。それらを踏みにじり、向き直って襲いかかる「犬や豚」は、神の御ことばと救いの福音をあざけり、神に敵対する者たちです。
個人伝道において、私たちはこのことに心を留める必要があります。パウロは、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。(Tコリント12:3b)」と言い、また「この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(Tコリント2:13f)」と言って、神の御ことばとイエス・キリストの福音を受け入れ、理解することのできるのは聖霊によることを教えています。
そしてまた、神が、コリントについて、「この町には、わたしの民がたくさんいる。(使徒18:10b)」と言われ、パウロが、「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。(エペソ1:5)」と言っているように、永遠のいのちに召されている人は、神のご聖定により予め定められています。そのため、6節の聖句は、私たちが個人伝道でキリストの福音を伝えるためには、私たちに知恵と祈りが必要であることを教えています。
マタイ28章の大宣教命令にあるとおり、御国の福音の伝道は主の命令であり、私たちに対する神の願いであり、神はそれを喜ばれます。神はみこころにより、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたからです(Tコリント1:21)。
ただしかし、神と神の御ことばであるキリストの福音が愚弄されないためにも、いつ、だれに、どのようにして自分が信じたイエス・キリストの福音を分かち伝えればよいのか、正しい判断ができるように、御こころを求めて神に祈ることが肝要です。そのようにして、人々の救いを願い、また御国の到来を待ち望んで伝道に励みましょう。「この国にはわたしの民がたくさんいる」という神の御声が聞こえて来るようです。
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