羊飼イエス・キリスト教会
Jesus Christ イエス・キリスト

名前について・・・

 イエス・キリストの名前はギリシヤ語です。「イエス」は、「主は救い」という意味のヘブル語名「ヨシュア」をギリシヤ語化した名前です。これは、当時のイスラエル男性の一般的名前ですが、父なる神がおつけになった名前です。
 「キリスト」は、ヘブル語「メシヤ(油注がれた者)」のギリシヤ語訳です。ヘブル語「メシヤ」は、本来は、神に聖別され、その職務を遂行するために聖霊を受けた王や祭司や預言者を指したことばです。しかしそれは、神が約束され、聖書に預言された「救い主」を意味するようになりました。このように、イエス・キリストは、その名が示すとおり、初めから、「救い主」メシヤとして定められたお方で
す。




イエス・キリストは、 人類と世界を救う唯一の救い主です。
イエス・キリストは、 この見える世界と見えない世界のすべてを造られた創造主である唯一の神、人類への神のメッセージ『聖書』が示す三位一体(父、子、聖霊)の神です。
イエス・キリストは、 受肉して人となられたまことの神であり、罪のない完全な人である、唯一のお方です。(二性一人格)
イエス・キリストは、 歴史においてアダムが神に罪を犯して以来(約5,700年前(ユダヤ暦))、神が約束され、およそ1,500年の間、預言者たちによって聖書に預言され、時満ちて、紀元前4?6年頃に、天の御国から降臨され、十字架について死なれ、その血によって全人類のすべての罪の贖罪を成し遂げられた救い主です。

⑴「救い」とは何か?

a.「救い」とは、自分のいのちが死から救われることです。
 聖書に、「ひとりの人(アダム)によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、--それというのも全人類が罪を犯したからです。(ローマ5:12)」と書かれているとおり、死は、罪の結果です。つまり、「いのちが死から救われる」ということは、「罪から救われる」ということです。イエス・キリストご自身が「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5:24)」とおっしゃっています。

b.「救い」とは、神との和解です。

 人類の始祖アダムが神に罪を犯して以来、すべての人は例外なく、罪(原罪original sin)を持って生まれ、その罪(原罪original sin)のゆえに、すべての人が、ことばと、思いと、行ないとによって、創造主である唯一まことの神に対して、日々、罪(現罪present sin)を犯しています。神は完全であり、どこまでも聖く、どこまでも正(義)しい方ですから、罪を受け入れることはできません。罪ある者が罪あるままで神に近づくなら、その罪人は神の火で焼き尽くされます。
 「神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。(コロサイ1:19?22)」聖書に書かれているとおり、「救い」とは神との和解です。それは、罪人の上に留まる神ののろい、すなわち罪を憎む神の怒りからの解放です。

c.「救い」とは、神の永遠のいのちに入れられることです。

 かつて神が、神のパラダイス、エデンでアダムとエバと一緒にお暮らしになったように、神は人間と一緒に暮らすことを望んでおられます。「救い」とは、罪赦され、神の永遠のいのちに入れられた人が、新しい霊のからだを与えられて、涙も憂いもない神の御国で神とともに暮らすことです。

d.「救い」とは、サタンの支配から神の支配に移されることです。

 「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。(使徒26:18)」と主キリストご自身が言われているとおり、サタンのコントロールから解放されて、神の支配に移されることです。

e.「救い」とは、真理を知って自由になることです。

 すべての人は全的に堕落(罪によって完全なものがなく、すべてが歪んでいる状態)しているため、この世界を正しく理解し、とらえることができません。科学は新しい発見によって常にその理論を変えて来ました。「神などいない」と思いたい人たちが作り出す似非科学、進化論に至っては、その初めから、何の真実もありません。「救い」とは、神について、創造について、人間について、この世界について、罪について、死について、救い主イエス・キリストについて、裁きについて、やがて来る後の世についての真理、すなわち正しい知識を知り、贋作(がんさく)の名手サタンが、人間を惑わすために捏造(ねつぞう)した偽の権威や知識による、迷信や恐れの束縛から解放されて、心の自由であるたましいの自由を得ることです。
 そして、真理を知ることは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ14:6)」と言われたイエス・キリストを知ることです。それはまた、「あなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ 8:31?32)」と言われているように、主の御ことば、聖書を根拠として、聖書の御ことばにとどまることです。
f.「救い」には・・・  まだまだたくさんの幸いがあります。


⑵ 「福音(The Good News)」とは何か?


 神あるいはキリストの福音とは、イエス・キリストが現れるまで隠されていた神の奥義です。この福音は、私のため、そしてアダムを初めとする全人類のすべての罪を、十字架について、その血によって贖い、死んで葬られ、3日目によみがえられた神の御子、主イエス・キリストを信じる信仰によって、その人をその罪から救うという神の約束です。そして、救われた者は、神の子とされ、永遠のいのちを与えられ、キリストとともに世界を相続するという、神の恵みによる、神の約束です。
 この福音の「実」である「救い」は、人の修行やわざによって到達したり、得ることのできるようなレベルのものではありません。ただ、神のあわれみと恵みにより、神、主イエス・キリストのいのちと引き換えに人間に与えられるものです。

⑶ 罪とは何か?

 罪とは違反です。国の法律に違反すればそれは罪を犯すことであり犯罪です。聖書の「罪」も基本的にはそれと同じです。ただ、その違反は、この世界を造られた万物の基準であるまことの神に対する違反です。万物の基準、またルールである神の御ことばへの違反です。そして、その最大の違反、すなわち最大の「罪」は、神と、神が私たちを救うために備えられた神の福音、主イエス・キリストを信じない罪です。人の運命は、神の福音、主イエス・キリストを信じてそのすべての罪が赦されるか、信じないですべての罪を残したまま「裁きの日」に裁かれるかによって、まったく異なる2つの道に分かれます。それは、幸いとのろい、いのちと死、天国と地獄に、人を永遠に分け隔てる2つの道です。人間にあるのはこの2つの道だけです。

 罪とは違反です。国の法律に違反すればそれは罪を犯すことであり犯罪です。聖書の「罪」も基本的にはそれと同じです。ただ、その違反は、この世界を造られた万物の基準であるまことの神に対する違反です。万物の基準、またルールである神の御ことばへの違反です。そして、その最大の違反、すなわち最大の「罪」は、神と、神が私たちを救うために備えられた神の福音、主イエス・キリストを信じない罪です。人の運命は、神の福音、主イエス・キリストを信じてそのすべての罪が赦されるか、信じないですべての罪を残したまま「裁きの日」に裁かれるかによって、まったく異なる2つの道に分かれます。それは、幸いとのろい、いのちと死、天国と地獄に、人を永遠に分け隔てる2つの道です。人間にあるのはこの2つの道だけです。

 古くから、私たち日本人には、「分け登る麓の道は多けれど、同じ雲井(高嶺)の月を見る哉」という根強い宗教観があります。これは、当時の十宗十二宗の仏教について一休禅師が詠んだ短歌ですが、明治期にはいってからは、キリスト教も含め、すべての宗教がそうであるかのようになんとなく信じられています。しかし、残念ながら、それは、そう信じたい人たちの希望的観測であり、真実を表してはいません。なぜなら、実在の生きておられる唯一の神は、イエス・キリストを信じる以外の「救い」の道を、人間に用意されていないからです。



イエス・キリストは、

一度目は、十字架について全人類の罪を贖(あがな)う贖い主として地上に来られましたが、二度目は、ご自分を信じる者の救いを完成させ、信じなかった者を裁く王として、裁き主として、ご自分の国を打ち建て、新しい世界を造るために再びこの地に帰って来られます。


「これらのことをあかしする方がこう言われる。
『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。
主イエスよ、来てください。(黙示録 22:20)」