羊飼イエス・キリスト教会
羊飼イエス・キリスト教会主日礼拝説教

2014年 1月 19日

武内 明


『宮より大きな方——イエスは安息日の主——

マタイ12:1〜8

 先週は、11章28節の聖句から『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。』という題で、主が招かれる「主の安息」について学びました。今日は、引き続き、パリサイ人たちとの「安息日」論争を通しての「主の安息」についての学びです。

 (1)「そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。2 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。『ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。(12)』」・・

 申命記に、「隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。(申23:25)」とありますから、弟子たちが、他人の畑で麦の穂を積んで食べることは違法ではありません。イエスのメシヤ性を否定し、その言動を監視するパリサイ人たちがイエスを咎めたのは、弟子たちが、そしておそらくイエスご自身も、それを安息日にしたからです。

 彼らの“口伝律法”の安息日規定(ミシュナー・シャバット)によれば、麦の穂を摘むことは、収穫することであり、収穫は、“安息日に禁止されている1,500以上の労働禁止令からなる39種類の仕事”のうちの1つでした。

 (2)「しかし、イエスは言われた。『ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。』(37)」・・

 ここで、イエスが引用されたのは、第Ⅰサムエル記21章にある、ダビデがサウル王から逃げてノブの祭司アヒメレクのところに行ったときの話です。「供えのパン」は、聖所に置かれたイスラエル12部族を表す12個のパンで、安息日ごとに新しくされました。供えられた古いパンは、「最も聖なるもの」として、祭司だけが聖なるところで食べることを許されました(レビ24:89)。ダビデは、祭司アヒメレクが与えたそのパンを食べたのです。

 イエスがこの話を引用されたのは、ダビデと従者たちもイエスと弟子たちも、ともにひもじかったということと、それが安息日であったからです。

 次にイエスは、「安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。」とパリサイ人たちに問いかけられます。しかし、2つの問いとも、その答えを求めておられるわけではなく、「あなた方も当然知っているように。」という意味でお話しになったものです。

 安息日は全き休みの日であり、どんな仕事もしてはならない日ですが、祭司たちは、安息日に神殿でささげるいけにえなどの奉仕のため、普段以上に忙しく働きました。それもまた、律法の定めであり、安息日に宮で働いている祭司たちが、そのために罪に問われることはありません。

 「あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。(6)」・・

 これは、11章27節に続いての、イエス・キリストご自身による“神宣言”です。

 安息日に宮で仕えている祭司たちが罪に問われないなら、その「宮より大きな方」、すなわち神であるイエス・キリストご自身が罪に問われることなどあるはずがないということです。

 異教においては、神殿に神を即位させる、すなわち偶像をその玉座に安置することが必要ですが、創造主である聖書の神は、本来、人の手で造った神殿などにお住まいになることはありません。それは、ソロモンが、「実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。(Ⅰ列王8:27)」と言ったとおりです。

 また、今日の『招きの詞』、「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。(イザヤ66:12)」とあるイザヤ書の御ことばもまた、私たちの神、主が、被造物の中などにはお住まいになれないほど大きなお方であることをいうものです。

 神である主が、シオンを選び、それをご自分の住まいとされたのは、詩篇に、「これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。(詩132:1315)」とあるとおり、ご自分の意志でそうされたからであり、それ以外の理由はありません。それは、ご自分の民イスラエルを愛して、彼らとともに住み、恵みを施したいという御こころのゆえです。

 そして、「これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。」とあるのは、私たちの安息が、主を信じる主との信頼関係の中で、主への信仰によって得られるように、義なる神は、罪のないご自分の民との心の交流、すなわち霊の交わりの中に、ご自分の安息を見いだされ、そこに住むことを望んでおられるからではないでしょうか。

 それは、丁度、アダムの堕罪前のエデンであり、イエス・キリストの十字架の贖罪を信じて、罪赦されて救われたクリスチャンが行く天の御国のすがたです。

 次にイエスは、「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。(ホセア6:6)』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。」(7)」と言われました。そしてこの御ことばが、今日の主の御教えを説く鍵となる御ことばです。

 私たちの神、主は、ご自身が、「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富む。(出34:6)」と宣言されているとおり、あわれみ深い神です。

 しかし、もし、神の恵みである、罪を赦すイエス・キリストの十字架の福音がなく、義なる神が、その正義を貫かれるなら、生き残れる人は一人もいません。罪ある者は、死に定められているからです。私たちがいまあるのは、ただ、この神のあわれみによるのです。

 イエスは、マルコの福音書では、「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。(マルコ2:27)」と言われ、申命記十戒を背景とするこの御ことばによって、パリサイ人たちの訴えを退けられています。このように、パリサイ人たちの教えは、全く本末を転倒したものでした。

 彼らは、あわれみよりも、いけにえを、すなわち、御霊の実であるあわれみの心よりも、律法の義務としてのいけにえを、すなわち、霊よりも肉を重んじ、安息日に仕えるために人があるかのような倒錯した教えによってイエスとその弟子たちを裁いたのです。

 先に述べたように、イエスと弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたことは、モーセの律法に違反するものではありません。しかし、イエスは、自分たちの口伝律法に従う頑迷なパリサイ人たちの教えを正すために、「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。(ホセア6:6)」とホセア書に表された、あわれみ深い神のご本質を示して、そのあわれみのゆえに、ダビデの違反が赦され、また、安息日に宮で仕える祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを教えられたのです。

 また、イエスが引用されたホセア書のあとの句には、「全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。ところが、彼らはアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った。(ホセア6:6b7)」という御ことばが続きます。そして、このことは、当然、律法の教師であるパリサイ人たちの知るところであったと思います。つまり、イエスは、「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。(ホセア6:6a)」と言われたことで、イエスを咎めたパリサイ人たちに、あとの句も同様に示されたのであろうということです。

 この句に託されたイエスの御心は、神は、義務として形式的にささげられる全焼のいけにえより、神を知ること、すなわち神であるキリストご自身を信じることを喜ばれるということをいうものです。また、続くホセア書6章7節の、「ところが、彼ら(あなた方)はアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った。」というのは、神の契約である律法を、自分たちの口伝律法に置き換えて契約を破り、神を裏切ったことを暗示されたものです。

 (3)「人の子は安息日の主です。(8)」・・

 これは、引き続いての、イエスご自身によるメシヤ宣言であり、神宣言です。「人の子」は、ダニエルが幻で見た「人の子のような方」(ダニエル7:13)を表すメシヤの別名ですが、イエスはご自分を指すメシヤ的自称として、つまり、ご自分が約束の救い主メシヤであることを示すメシヤの名として用いられます。(旧約聖書のほとんどにおいて、「人の子」は、「アダムの子」、すなわち人間を表す一般名称として用いられているため、マルコの福音書の「人の子は安息日にも主です。(マルコ2:28)」というのは、その文脈から、「人間が安息日の主人である」と解釈することもできます。しかし、マタイにおいては、そうした解釈の余地はないと思います。)

 また、「安息日の主」というのは、ご自分が神であることをいうものです。なぜなら、神は、旧約聖書において「安息日」を、「わたしの安息日」と呼ばれ、「安息日」がご自分のものであり、ご自分が「安息日」の主体であることを繰り返し宣べておられるからです。そして、イエスが宣言されたこの「安息日の主」の「主」は、神の御名である新改訳聖書の太字の「」ではなく、主人を表すアドナイの「主」です。このように、イエスは、ご自分が「宮より大きな者」であり、また「安息日」の主権者、神であると言われているのです。そして、事実、またそのとおりです。

 安息日は主のものです。十戒に、「七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。——あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。——それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。(出20:1011)」とあります。

 また、創世記2章に、「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。(創2:13)」と書かれています。

 神は霊であり、人間が必要とするようには休息を必要とされません。創造の神である主が、7日目を「安息日」として祝福し、聖別されたのは、七日目に、「なさっていたわざの完成を告げられた」からであり、「神がなさっていたすべての創造のわざを休まれた」からです。また、この「休まれた」と「安息日」のヘブル語の語根は同じシャバットです。

 これらのことから、神が「安息日」と定められた第7日目の「主の安息」もまた、創造の一環であり、創造の完成であるということができると思います。

 そのことの真実は、ヘブル書に、「信じた私たちは安息にはいるのです。『わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。』と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。(ヘブル4:3)」と書かれた御ことばが、同様に証していると思います。

 安息とは、休みであり、平安です。神は、6日間の創造のわざを終えて、7日目に休息されたのではなく、第7日目に、全き永遠の平安、「主の安息」を創造され、第7日目を「主の安息日」として聖別され、祝福されたのです。・・私たちを招くために。

 創造の第7日目の「主の安息」、それは、この世に「罪」がはいる前、すなわちアダムの堕罪前の、お造りになった被造物との信頼関係の中にあるのではないでしょうか。

 先に6節で触れたように、私たちにいまある平安は、神である主に信頼し、主イエス・キリストを信じる信仰から来る平安です。それは、信じた私たちが、父、子、聖霊の三位一体の神との交わりの中に入れられているからであり、信仰のあるところ、すなわちキリストに信頼するところに罪のはいる余地はないからです。

 私たちはいま、創造の第7日目に主が用意してくださった「主の安息」の部分を、主に信頼し、主とともに歩む日々の中で、前味として味わっています。しかし、まもなく、救いの完成である。完全な「主の安息」、天の御国にはいります。

 そして、この幸いの基は、あわれみ深い神の摂理によるイエス・キリストの福音、救い主イエス・キリストの十字架の血による贖罪にあります。

 創造の神、主が用意してくださった、この「主の安息」にあずかる私たちの幸いを主に感謝するとともに、悲惨の中にある、まだ主を知らない兄弟姉妹に、「安息日の主」であり「宮より大きな方」である神、イエス・キリストを伝えるわざに、主とともに、そして皆様とともに励んでまいりたいと思います。